真田幸村生存説関連
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投稿者不詳

1月5日に午後9時から2時間、4チャンネルで、
時空警察PART5を放映したが、その中で、
島原の乱の総大将・天草四郎が豊臣秀吉の孫で、
秀頼の子としていた。確かに、天草ではそういう噂がある。
また、真田幸村が鹿児島の谷山の木下郷に
豊臣秀頼を逃がした下りもあった。京童では、
「鬼のようなる真田が、花のようなる秀頼さまを連れて、
退きも退いたり、鹿児島まで」としていたが、実際は、
秀頼が水戸泉のような巨漢で、真田幸村が優男であり、
京童とは逆である。実態と人の噂は違う。
見たことがないので、勝手な想像で民衆は噂を流す。
そういうことは常に考慮しなければならない。この話は、
本にもなり、テレビでやる程のネタであるということである。
実際は、秀頼は、幕府に探索されないよう、偽名を使い、
身分を隠している。むしろ、秀頼の子なら、
身分を隠すはずである。天草四郎は秀頼の子を語って
人を集めようとしていたと見るのが自然である。
そういうことはよくあることだ。真田幸村の子孫は皆、
江戸時代にはひっそり暮らしていた。
秀吉の身内も皆そうであった。当人は、身分を隠すが、
語りは逆に強調する。詐欺師の手口を考えればよく分かる。
ついでに、真田大介が砂土原島津中興の祖と言う話も、
真田大介幸昌と島津幸久が名前が似ていたため、
何らかの誤解が生じたものと思われる。
早い話が早とちりである。これもよくあることだ。
ちなみに、秀頼の長男・国松は、
北の政所・ねねの実兄で立花藩(大分県)主・木下氏に
預けられた後、木下氏の実子ではないことから、
立花藩から分家して、日出(ひじ)藩主となったのは
公然の秘密である。

投稿者不詳

証拠は何も残っておりませんが、
私の親の話をまとめたところ、
不思議な話ができあがりました。あくまでも、私の推論です。

私の母方の実家は鹿児島で、祖父は真田の苗字です。
家紋も六文銭です。
中学生のころに信長の野望にはまり、
真田幸村には伝説があることを知り、同じ家紋なので、
不思議に思い、母親と祖母に真田家の由来を聞きました。

その真田家は昔、ある大きな戦争に負けて
お殿様と薩摩へ落ち延びたという伝説があったそうです。
そして、落ち延びた先は牧園町。ど田舎です。
何もありません。
ある山に住み、周りはその家来達が住んでいたそうです。
その家来の名前は忘れました…。曾祖母が道を通ると、
仕事の手を止めて、いつも深々と礼をしていたそうです。

不思議なのは、真田家の墓には、
島津家の姫の墓があることです。
なにやら、悲話がある姫のようで、
鹿児島では有名な姫だそうです。
島津家の墓に入れず、真田家が引き取ったとかなんとか。
はっきり覚えてません…。
戦争で負けて落ち延びてきた武士の家に、
島津家の姫がなぜ?
島津家の家来でもないのに、おかしくないですか?
それに、鹿児島市には豊臣秀頼のものと
言われている墓もあるそうです。

そして、驚いたことは、屋敷の屋根裏には、昔、
「真紅」の鎧、頭にかぶる傘がいくつもあったそうです。
母は幽霊が出るから入るなと言われていたそうですが、
伯父がそれを全部、
ちゃんばらごっこでぼろぼろに壊してしまったそうです。

これらの話を聞き、幸村生存伝説は、
もしかしたら本当だったのではと思いました。
幸村は戦死したとしても、息子が秀頼と一緒に
落ち延びたのではないでだろうか。
そして、島津家に庇護され、
山奥でひっそりと生活していたのではないかと
中学生の頃に思いました。

その屋敷も、そのうち土砂崩れでなくなり、
真田家の歴史を知る人間もいなくなり、
何の情報も得られません。
さっき、突然そんな古い記憶を思い出し、
忘れないうちに誰かに伝えておこうと、
ここへ投稿した次第です。
どれも確実な情報ではありませんので、ご了承のほどを。
今は海外で生活しているため、
日本語の感覚がよくわからず、稚拙な文章ですみません。
では、失礼いたします。

Mア

眞田信繁(幸村)の末裔が調べた先祖の薩摩落ち(2018年9月14日現在、知覧町・Mア)



 私は、幼少の頃、父(故人)に眞田信繁(幸村)の子孫と言われましたが、眞田信繁(幸村)を聞いたことがなかったので、何者か分かりませんでした。私の生まれ故郷の鹿児島県では、西郷隆盛が有名であり、眞田信繁(幸村)は無名でした。私は、小学校1年生の後半から岐阜県各務原市で育ちましたが、そこでも三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が有名であり、眞田信繁(幸村)は無名でした。私が小学校低学年の頃、「真田十勇士」という番組をテレビで放映していた(この頃、学者や研究者が雪丸の眞田信繁(幸村)の墓を大勢訪ねてきた)が、架空の人物である猿飛佐助や霧隠れ才蔵ばかり出てきて、眞田信繁(幸村)は滅多に出てこないため、眞田信繁(幸村)についても何も分かりませんでした。
 その後、私は、学習院大学を卒業して労働省に入省しましたが、30歳代半ば頃、弟が父(故人)に「僕らは親戚を全く知らないので、紙に書いてくれ」と頼んだら、父(故人)が家系図を書いてそのコピーを送付してきました。私も、眞田信繁(幸村)が何者か全く分かりませんでしたので、この際、眞田信繁(幸村)について調べてみました。そうしたら、眞田信繁(幸村)が長野県の人間だということが分かりました。鹿児島生まれの私がどうして長野県の眞田信繁(幸村)の子孫なのか分かりませんでした。更に調べたら、眞田信繁(幸村)が鹿児島県谷山市、更に揖宿郡頴娃町(現・南九州市頴娃町)に落ち延びたことが分かりました。
 なお、「歴史と旅」(平成6年3月号)に掲載した時は、急な寄稿依頼だったため、慌てて書き送りました。その後、鹿児島の現地の資料や眞田博明氏からの資料も手に入り、いろいろな本やインターネットで調べ、テレビの歴史番組も見ながら補強し続けた結果、「歴史と旅」に掲載した内容とは全く別の物になってしまいました。そこで、「歴史と旅」の編集者が勝手につけた見出しとは違う本来の表題をつけています。


はじめに

 源義経が蒙古に渡り、チンギス・ハーンになったとか、アドルフ・ヒトラーが南米に亡命したとかいう話さえある。眞田信繁(幸村)がベトナムにわたってゲリラになったという話もあります。西郷隆盛や坂本龍馬などにも生存説があります。
こうした荒唐無稽な遺聞や異説は別として、眞田信繁(幸村)の薩摩落ちについては、多くの古文書に書かれ、多くの肯定的な記述があり、状況証拠が揃っています。
今後、学者によって大坂夏の陣後に薩摩落ちしてから眞田信繁(幸村)と眞田信之(信幸)がやりとりした手紙が本物と証明されれば、伝説ではなく実話であったと確定します。
 眞田信繁(幸村)の薩摩落ち伝説は、他の伝説と違い、歴史的な背景があり、多数の記録や伝承が存在します。火のないところに煙は立たない。およそ歴史そのものが勝者の歴史であり、敗者のそれは都合のいいように歪曲されたり、抹殺される憂き目に合うのが常です。
桃太郎伝説は出雲の渡来人が作る製鉄技術を手に入れようと大和朝廷の皇太子が侵略したのが実態であり、侵略を正当化するため、渡来人を鬼に見立てました。また、「日本書紀」や「古事記」では、渡来人の政権である大和朝廷が、先住民族の熊襲や蝦夷を侵略していった過程を正当化するため、日本武尊(やまとたけるのみこと)という架空の人物を使って自分たちに都合のいい神話を作り出しました。更に、滅ぼした相手に祟られることを恐れて、神に祭り上げたりしてきました。
 歴史の裏には必ず“隠れた歴史”が存在する。正史である水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」は後世に伝えています。眞田信繁(幸村)の薩摩落ちも、為政者に都合が悪く、抹殺、隠蔽された歴史の一つです。
 長年実在が危ぶまれていた中国の「殷」や「夏」の遺跡が発見されました。ギリシアの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイの遺跡も発見されました。伝説とばかり思われていたことが実話であったことが判明することはよくあります。伝説と思われていたことがいつかしか実話だったと証明されるかもしれません。伝説だからといって抹殺してならない。


眞田信繁(幸村)生存説は抹殺された

眞田信繁(幸村)による秀頼救出劇は、江戸中期の作家上田秋成が書いた『胆大小心録』の中で、大坂西町奉行所与力内山栗斎の女中から聞いた話として書かれている。その女中の母親は、18歳から木村重成に仕えていた女性である。また、『厭蝕太平記』『玉露証話』『備前老人物語』の中でも、これは述べられている。
 これに基づき、『眞田三代記』という草紙本では、前もって、影武者である穴山子助を真田信繁(幸村)として敵の陣中に売り込んでおいて、さて開戦となると、何人かの影武者に自分と同じ服装をさせて、次から次へと戦場に送り込んで、さんざんに敵を惑わせたとされている。また、眞田信繁(幸村)の首とされるものが本物かどうか確証できなかった。智将眞田信繁(幸村)のことだから、豊臣秀頼や真田大助幸昌の身代わりを立てて、千飯倉に籠もらせ、夜に掘割伝いに川筋へと小舟を漕ぎ出して、海上へ逃れ、その後、薩摩へ落ちのびた。
 眞田信繁(幸村)研究の第一人者・小林計一郎は、「眞田信繁(幸村)は一方の総大将として大阪に死に行った」とする説を展開して、眞田信繁(幸村)の薩摩落ちを否定した。しかし、当時の資料を見ると、眞田信繁(幸村)は総大将ではないし、戦に勝つための手を講じていたが、大野兄弟の反対によって思い通りの戦をすることができず、やむを得ず次善の策を講じて勇名をはせた。決して大阪に死に行った訳ではない。長野県で唯一の英雄・眞田信繁(幸村)が生きていたのでは、美談とならず、都合が悪いため、眞田信繁(幸村)生存説は抹殺された。
 しかし、影武者が大勢現れた大阪夏の陣において、討ち死にした者は影武者の一人であったとするのが自然である。むしろ、討ち死にしたとする方に無理がある。影武者は「我こそは眞田左衛門輔」とか、「眞田信繁(幸村)の倅」とか大声で名乗っていたとされているが、これは江戸時代の創作であり、最近の研究では、実際は本人も影武者も何も言わなかったことが判明している。写真のなかった当時、まだ無名だった眞田信繁(幸村)や眞田大助幸昌について本人かどうか確認できるはずもなかった。本人は身分を隠しており、眞田信繁(幸村)が討ち死したとする説は決定的な証拠を欠いている。証拠不十分だから、長野県人の受け入れやすい理屈を展開した。つまり、学問的手法ではなく、政治的手法で抹殺した。
 両論併記という本来の形に戻し、更に調査・研究を進めていくべきである。最近、加来耕三氏は「可能性は50パーセントだ」と発言している。やっと昔の位置まで引き戻せた。


大阪冬の陣

 東西の武力衝突によって決着をつけなくては、家康政権を完全なものにできない。豊臣家を完全に葬り去らなければ、禍根を残すことになる。家康はそう考えた。
 徳川家康との手切れを悟った豊臣秀頼が諸国に兵を募ったのは、慶長19年(1614)10月であった。これに応じて、眞田信繁(幸村)らは、大坂城入りを果たした。
 当初の軍議では、「急遽、宇治・瀬田の橋を落とし、川船を焼き、敵陣に間者を送り込み、離間策を用いれば、敵は相互不信に陥る。そこで、一気に攻めたて、その上で、神出鬼没の強襲を繰り返せば、敵はおのずと崩れていく」という瀬田川出撃策を提唱し、籠城戦を否定した。後藤又兵衛ら浪人の大方がこれに賛成した。しかし、秀頼に従う譜代の臣は城に期待を寄せるあまり、よそ者である眞田信繁(幸村)の献策を拒絶した。
 主将格の大野治長は、籠城戦を強行した。
 大阪城の西は海、北は天満川、東は沼地だったので、丘陵地帯の南だけが戦場になることは始めから分かっていた。そこで、眞田信繁(幸村)は、総構の外の南西に出丸を造ることにした。軍議でこれが了承され、眞田信繁(幸村)は、眞田丸という一種の「馬出し口」を造って、奮戦した。これは一種のトーチカであったことが発掘調査で分かった。日露戦争の時、乃木大将が203高地を攻めた際、ロシア側がトーチカを作って奮戦したため、日本側に甚大な死傷者を出したが、眞田信繁(幸村)は戦国時代に既にこのトーチカを造っていた。また、当時にはまだない今の拳銃のようなものも作った。兵士の鉄砲も3人がかりで持たなければならない大きなものだったため、徳川方の鉄砲より射程距離が極めて長く、なかなか徳川方は真田丸に近づけなかった。加えて、真田丸の南側は原っぱなどではなく、市街地であったため、徳川方が攻めてくる道からは真田丸の様子は見えず、徳川方に甚大な被害を与えた。
 この眞田丸は、大阪城二の丸西南門の南方に当たる高台の畑地に、大阪城との間の谷などの地形や寺などの既存の施設を利用して短期間で作られた。夏の陣でも既存の地形を利用して、第2、第3の真田丸を作っている。三方の空堀をほり、塀をめぐらし、塀の外と空堀の中、それに塀の外とに三重の柵を構え、随所に矢倉や井楼を設け、塀の腕木の通りには幅七尺の通路を造って行動を自由にした。総構の外に出ること40間(72m)、東西に長く南北に短い新月型の砦だった。
 眞田丸の正面には、加賀百万石の前田利常が陣取り、その後方に徳川秀忠の本陣があり、秀忠陣の左手・茶臼山には家康が陣取っていた。
 当時の地図によると、眞田丸の前方は篠山という小山だった。そこに毎日、眞田勢が現れて鉄砲を撃ちかけるので、前田勢から死傷者が続出した。眞田勢の射撃は正確だった。おそらく九度山から眞田信繁(幸村)に従ってきた漁師だったのだろう。眞田勢は前田勢が聞き取りかねる方言で囃したてた。意味は分からずとも、その調子からして、挑発の愚弄だということは理解できた。徳川父子から注目されている前田利常は眞田勢の挑発と分かっていながら、功に逸った。眞田丸に忍び込ませていた間者の働きで、内応者が出る手はずにもなっていた。前田勢は3日の夜から出撃の準備を整え、4日の空が明け始めるのを待ちかね、眞田丸に攻めかかると、やがて砦の中で大爆発が起こった。
 眞田の射手が火薬桶の中に誤って火のついた火縄を落としたための大爆発だったが、前田方はそれを内応の合図と取り違えた。ここぞとばかりに兵を進める前田勢に、他の諸隊も遅れてはならじと、軍令を無視して遮二無二攻めかかったので、徳川方は眞田信繁(幸村)の冷静な采配の餌食となって、さんざんに打ち負かされた。
 徳川家康はかねてより準備していた大砲を天守閣に打ち込み、1発が命中したため、恐れおののいた淀君は徳川方との講和に応じた。外堀を埋めることで合意したが、徳川方は内堀までも勝手に埋めてしまった。このため、大阪城は丸裸となった。


大阪夏の陣

 家康は、主な浪人の切り崩しを行った。飢えた浪人には、法外な知行で誘いをかけた。眞田信繁(幸村)にも、城を出て徳川に属したら、信州で10万石を与えると誘いをかけた。家康側近の本多正純が責任を持って眞田信繁(幸村)の身を保証すると持ちかけたが、眞田信繁(幸村)はこの誘いをあっさり蹴った。そうすると、今度は、家康から信州一国との誘いがかかった。しかし、眞田信繁(幸村)は、これまでの徳川家康の所行(眞田昌幸の所領・沼田を勝手に北条氏に渡す約束をしたり、伊達政宗との所領を増やす約束も守らなかったりした)からして徳川家康は信用できなかったので、これも断った。
 4月13日の軍議で、眞田信繁(幸村)は、秀頼に出陣を促し、まず伏見城を攻め取ることを強く求めた。外堀のみならず内堀まで埋めつくされてしまったことから、大阪城が物の役に立ちそうにもないので、新たな城を求めた。また、眞田信繁(幸村)は、宇治・勢多に全軍を集め、徳川勢を迎え討つ間に、秀頼の上洛を勧めた。軍議の席に列した浪人あがりの客将たちも眞田信繁(幸村)の考えに賛成だったが、出頭人の大野治長が応じなかった。
 5月6日、眞田信繁(幸村)の軍勢は、赤一色の軍装で統一されていた。幟も差物も、全て赤だった。鉄砲も新たに開発した連発式の短筒だった。このとき、眞田信之(信幸)の立場を慮って六文銭は一切使わなかった。この眞田信繁(幸村)の赤備えが道明寺口の激戦場から城に引き下がる大阪勢の殿をつとめた。ここでも3個の古墳に馬出し口をつくり、第2の眞田丸を作って、古墳と古墳の間の隘路に敵を誘い込み、古墳から眞田信繁(幸村)隊の伏兵がさんざんに敵に鉄砲で打ちかけた。最近の研究では、霧で眞田信繁(幸村)隊が遅れたのではなく、後藤又兵衛隊が小松山から眞田信繁(幸村)隊の伏兵がいる古墳と古墳の間の隘路に敵を誘いこむ作戦であったことが判明した。間違って後藤又兵衛が戦死してしまったものの、後藤又兵衛隊の残兵は古墳の間の隘路まで伊達政宗隊、松平忠明隊などを誘い込んだため、作戦は大成功し、隘路の徳川方を鉄砲でさんざんに打かけ、徳川方の惨敗となった。
 5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」では違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府はひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない。最近は、眞田信繁(幸村)が徳川家康のスパイだったという説まで飛び出している。そう考えると納得がいく事件すらある。
 5月7日、眞田信繁(幸村)は、茶臼山に早々と陣を布いた。西の天王寺口(真田幸村隊が布陣)の西側に、東の岡山口(大野治房隊が布陣)の東側それぞれ馬出し口を設け、出馬が敵から見えないようにしていた。天王寺口と岡山口の間に広がる古代の運河跡(両岸跡が崖になっている)の北側に大坂方の諸隊が並んで布陣し、南側に徳川軍の先陣だけでなく後詰などもその位置に釘づけにしておいて、それぞれ馬出し口から出馬し、眞田信繁(幸村)隊は西に迂回して徳川家康本陣、大野治房隊は東に迂回して徳川秀忠本陣を急襲し、いわゆる裏崩れに持ち込む作戦だった。しかし、毛利勝永は、徳川方の本多忠朝隊が鉄砲を打ちかけて挑発したため、前に出てしまった。このため、作戦は崩壊した。
眞田信繁(幸村)は、やむを得ず、徳川方にかねてより裏切りの噂があった浅野幸長隊が裏切ったとの噂を流した。徳川方が浮足立って松平忠輝隊と伊達政宗隊の間に隙間ができた。そこで、眞田信繁(幸村)隊はその隙間を掻い潜って徳川家康本陣を急襲した。
視察に現れた大野治長に「今日こそ」と眞田信繁(幸村)は秀頼の出馬を求めた。「さすれば、士卒の意気も上がりましょう。なお徳川方が城の北西、天満・舟場へ攻め寄せることはまずないので、その方面の明石掃部助を敵の後方へおまわしください。明石の狼煙を合図に眞田信繁(幸村)が家康の本陣を襲い、その虚に明石勢が家康の背後を突けば、きっと勝てます」と。治長は承知してその場を去るのだったが、いつまでも秀頼が出てこないので、眞田信繁(幸村)は、「総大将秀頼が、みずから千生瓢箪の馬印を掲げて出馬すれば、志気は一気にあがり、自軍を勝利へ導くことも可能となる」と、長男・眞田大助幸昌を使いにやった。
 大坂方は関ケ原合戦を経験した猛者ぞろいだったのに対して、徳川方は世代交代して戦を経験したことがない者ばかりだったため、眞田勢が3、4回激しく攻撃すると、将軍秀忠は次第に敗退し、その部下の多くが列を乱し、旗本は主君の徳川家康をほったらかして12キロメートル先まで逃げた。これを見て、徳川家康は、退却の準備をし、自ら敗走者の跡を追おうとしたことが数回あった。その度に、側近によって引き止められた。このとき、さすがの家康も観念し、腹を切ろうとした。しかし、大阪方が少し弛めたので、戦局は、たちまち流れが変わり、切腹を取り止めた。家康の本陣が総崩れとなったとき、家康の側に踏みとどまった騎士は小栗忠左衛門久次一人だった。
 徳川家康には死亡説もある。駕籠に乗って逃げ回る徳川家康は大坂方に遭遇し、大坂方に槍で突かれ、何とか振り切って堺・南宗寺まで逃れたが、家臣が駕籠の戸を開けたところ、家康は既にこと切れていた。やむなく、幕府軍は家康の死を秘す意味もあり、この南宗寺開山堂の床下に隠すように埋葬したと伝えられている。その後、南宗寺に何の刻印もない徳川家康の墓が建てられた。また、日光東照宮に祭られている徳川家康の駕籠には上部に槍で突かれた穴が開いている。
 大阪の天王寺区六万体町に元眞田信繁(幸村)の邸宅と称する所があって、そこに眞田山に通じる長い抜け穴があることが発見されている。抜け穴は3つあった。
影武者が大勢現れた大阪夏の陣において、討ち取られたのは影武者の一人にすぎない。眞田信繁(幸村)の影武者は「我こそは真田左衛門輔」と、大阪城にいた大助の影武者は「眞田幸村の倅」とそれぞれ大声で名乗っていた。最近の研究では、眞田信繁(幸村)も眞田大助幸昌も何も言っていなかったことが判明した。写真のなかった当時、まだ無名だった眞田信繁(幸村)や真田大助幸昌について本人かどうか確認できなかった。
 5月7日の大坂夏の陣最後の決戦では、ここかしこに「眞田左衛門佐(幸村)」を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み、あと一歩のところまで家康を追い込んだが、精根尽き果て、田の畔に腰を下ろしているところを、越前藩・松平忠直隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首をとられた(『慶長見聞書』)。この幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』であるが、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には眞田信繁(幸村)の兜首が3つも出てきたが、西尾久作のとったものだけが、兜に「眞田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされた。後に徳川家康は、眞田信繁(幸村)を討ち取った兵士と対面した。その際、その兵士に労いの言葉どころか、「お前などに幸村を討ち取れる筈がない」と言い放った。
しかし、『眞武内伝追加』によると、「実は西尾のものも影武者望月宇右衛門の首であったとのことで、西尾の主人・松平忠直は将軍秀忠の兄・秀康の嫡男であり、その忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかった」と記している。
 眞田信繁(幸村)の首も首実験にかけられ、徳川方についていた叔父の眞田信尹が確認したが、「面相が変わっている為断言できません。眞田信繁(幸村)の額にこのような傷はなかった」と答える眞田信尹に家康は「二度も眞田信繁(幸村)に会っている癖に断言できないのか」と激昂する。眞田信尹にも言い分があり、彼が眞田信繁(幸村)に会ったのは夜でしかも眞田信尹は老眼だった。結局は口の中の欠けていたとされる歯の数や、首がつけていた兜が確かに幸村と一致したので首は確かに眞田信繁(幸村)と断定された。
 最後に、大阪城が焼失しているが、火をつけた犯人については諸説がある。


秀頼、幸村の大坂城脱出

 大坂の陣が始まる前に、豊臣秀頼は、“島津の退け口”で勇名を馳せた島津義弘に丁重に出陣を要請したが、断わられている。というものの、過去のいきさつもあって、島津義弘は、秀頼を救出することにした。島津義弘は徳川家康に味方する約束をしていたのに、伏見城を守る鳥居元忠が島津義弘を信用せず、「そのようなことは聞いていない」と言って島津義弘隊を受け入れなかった。そのため、行きがかり上、島津義弘は西軍に属することになった。関ケ原合戦後に島津義弘が徳川幕府にその経緯を説明するとともに、島津義久が薩摩藩の国境警備を固めた。加えて、徳川幕府に改易されそうになり、いざ合戦となった場合は、合戦で有利になるように豊臣秀頼を隠し球として確保しておこうしたのかもしれない。
島津の軍勢は西軍のために兵糧米500石を大坂城中に運び込み、その帰りに眞田信繁(幸村)・大助幸昌親子、豊臣秀頼・国松親子、木村重成らを密かに救い出した。家康が河川の多い低湿地帯となっている大坂城の北西方面に手厚い陣を布けなかったことを幸いなことに、眞田信繁(幸村)や豊臣秀頼らは、島津家家臣・伊集院半兵衛が京橋口から忍び入れた小舟に乗り、急流に乗って一気に川口まで下って、本船に移った。夏の陣の頃は梅雨の季節で、大和川(寝屋川)、平野川や淀川はなみなみと水をたたえ、その合流した急な流れに乗ることができた。
 この秀頼救出劇は、江戸中期の作家上田秋成が書いた『胆大小心録』の中で、大坂西町奉行所与力内山栗斎の女中から聞いた話として書かれている。その女中の母親は、18歳から木村重成に仕えていた女性である。また、『厭蝕太平記』『玉露証話』『備前老人物語』の中でも、これは述べられている。また、最近、「秀頼脱出~豊臣秀頼は九州で生存した」(前川和彦著、国書刊行会刊)」という本が発行された。
 「島津外史(鹿児島外史)」などによると、眞田信繁(幸村)らは、京橋口より軽船に乗り河港に出て、そこから瀬戸内海を進み、兵庫経由で島津の大軍艦に乗って、鹿児島湾(錦江湾)に辿り着いた。眞江田家に伝わる伝承によると、眞田信繁(幸村)は、この時、親鸞上人が書いた直筆の掛軸、秀頼から頂いた「おねぐい」の鞍などを鹿児島に持ち込んだ。
 大坂落城のとき、大坂城の北、天満方面にはほとんど東軍の姿はなく、城兵は自由に逃げ出せる状態にあった。参戦したら、北方、西方に配置される予定だった西国方面の大名はほとんど戦に間に合わなかった。7日の夕方落城し、翌日にはすでに京都あたりへ大勢の落人が逃げのびていった。名のある武将で逃亡した者も少なくなかった。その中でも、長曾我部盛観、大野道犬治胤、秀頼の息女(7歳)らは逃亡中捕えられ、息女(7歳)は尼にされた。この息女(7歳)と息子国松(8歳)を除き、みな殺された。
 豊臣秀吉から豊臣姓を称することを許されていた眞田信繁(幸村)が秀頼とともに薩摩へ落ちのびたという噂は早くからあったらしく、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ 加護島へ」と京童に歌われた。実際には、秀頼は背丈が6尺5寸(197cm)で、水戸泉のような体格をしており、酒好きであった。逆に、眞田信繁(幸村)の方が小柄な優男であった。一方の眞田信之(幸)は身長185cmもあり、93歳まで生きた。眞田信之(信幸)は正妻(公家)の子で、眞田信繁(幸村)は側室(農民)の子だったが、本当は信繁(幸村)の方が兄だとする説もある。更に2人の上に兄がいて、長男が源一郎、次男が源次郎信繁(幸村)、三男が源三郎信之(信幸)とする説もある。
 当時のイギリス東インド会社平戸商館長リチャード・コックスは、元和元年(1615)6月5日の日記に「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」と書きしるし、同じ日付で「皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり」と書いている。
 また、コックスは、それから1カ月半後の日記になると「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」という報告を書きとめ、京都から来た友人(イートン)の「秀頼様は今なお重臣の5、6名と共に生存し、恐らくは薩摩に居るべしとの風聞一般に行はるる」との話も後世に伝えた。
 後に、オランダ商館長ティツィングの訳をクラプロートが増補した仏語版「日本王代一覧」によって、兵庫経由での薩摩落ち伝説は欧州にも紹介された。
  鹿児島外史は「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り〜(中略)〜(薩摩)谷山村の在す」と記している。
 歴史研究・作家の加来耕三は、平成29年1月13日にテレビ東京の「古代ミステリーたけしの新世界七不思議大百科」で「汚穢船を使って堀へ出て堀から更に小さい川に出て、幅が大きくなったら大きい船に乗り換えて、最終的に兵庫沖で薩摩の船に乗り換えたという話が結構ありますから」と言っている。
 おそらく島津の軍船は太平洋側を航行したために徳川の探索に引っかからなかったのだろう。実際、幕末の西郷隆盛も徳川幕府の関所に引っかからないようにするため、太平側を航行し、大波で揺られ、難儀したとある。


秀頼、幸村の薩摩入り

『採要録』によると「大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市谷山地区)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も与えて何不自由のないようにしておいた。同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(現在の鹿児島県南九州市頴娃町牧之内・雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(現在の相良市加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。谷山にいたのは秀頼、山伏は眞田信繁(幸村)、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している」としている。
 眞田信繁(幸村)は、鹿児島県南九州市頴娃町牧之内・雪丸(鹿児島弁では「ゆんまい」という)に住んでいた。眞田信繁(幸村)の墓はこの雪丸にある。ここの「くりがの」小学校にその記録である「頴娃村郷土誌」が保管されている。
 雪丸(幸村がいたことから、雪村(せっそん)と呼ばれたが、のちに雪丸(ゆきまる)と呼ばれるようになった)に辿り着いてから、眞田信繁(幸村)は息子大助を「秀頼公をどうしてご出馬さ.せることができなかったのだ!」と大声で叱責した。大助も負けずに反論したため、口論となった。両方ともとてつもない大声で口論しつづけていたため、地元の人間はみな驚き、「不可思議に想った」と在地の伝承は伝えている。
 肥前平戸藩主、松浦静山の随筆である『甲子夜話』、島津外史(鹿児島外史)、薩藩旧記などは、眞田信繁(幸村)について、次のように報告している。谷山時代に芦澤左衛門という名の八百屋がいたが、その家には、眞田信繁(幸村)の武具や刀などの品々があり、一介の八百屋にこのようなものがあることを当地の人たちは不思議に思った。頴娃に着てからも、こうした品々を持ってきたため、彼がかの有名な眞田信繁(幸村)であろうと当地の人々は噂していた。当人は決して眞田信繁(幸村)と名乗ったことは一度もなかった。
なお、『甲子夜話』は、薩摩には島津外史(鹿児島外史)というものがあり、これは漢文で書かれており、いささか読みづらいとしながらも、これを引用しつつ、眞田信繁(幸村)や豊臣秀頼についての記録を残している。
 「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると「大坂夏の陣で戦死したはずの眞田信繁(幸村)が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命した」とある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓だろう」ということである。秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この国松にも生存説がある。


江戸時代の眞田幸村の子孫と眞田幸貫・松浦静山の甲子夜話
 頴娃村郷土誌によると、眞田信繁(幸村)は、雪丸で島津家から与えられた居宅に住み、頴娃村摺木在の百姓某の娘に身の回りの世話をしてもらっていた。眞田信繁(幸村)は、この女性と恋仲になり、女性は身ごもったが、落ち武者の身であり、申し訳ないと思い、鹿児島県南九州市頴娃町別府・大川の浦人某に嫁がせた。
この結果生まれた子が、筆者の先祖(瓢左衛門─ひょうざえもん)である。
 この瓢左衛門(ひょうざえもん)の後、周八、佐平次、菊蔵、武右衛門、佐平次(2世)、眞江田菊蔵(2世)、難波周八(2世)と続いた。叔父さん(故人)によると、新しく立て直す前の難波家の墓に代々の眞江田家の名前が刻まれていた。今の難波家の墓はその後立て直されたものである。眞江田家は、徳川の世も終わりに近い幕末になって藩主から苗字帯刀を許された。そのとき、先祖・眞田の名前をもらい、眞江田と名のるようになった。
当時の薩摩はまるで独立国家のようで、しかも辺境の地にあり、幕府も容易には手出しができなかった。まして、確証でもない限り、強制捜査などとうていできる訳がなかった。大勢に影響がない以上、事を荒だててまで、落武者狩りをすることは得策ではないというふうに、徳川幕府が考えたとしても別におかしくはない。
 眞田信繁(幸村)直系の子孫である眞江田家では、江戸時代から眞田の姓を名のろうとしていたが、徳川への遠慮から控えていた。眞田信繁(幸村)の子孫は徳川幕府に遠慮しながら、江戸時代を通じて一貫して身分を隠して生き続けていた。
 松代眞田家の第8代藩主・眞田幸貫は、この異説について調査を行い、その結果報告を見せてもらった肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山の「甲子夜話」には「大坂落城の時、豊臣秀頼は潜かに薩摩に行かれたという一説あり。此の事、異域、(中国)へも聞こえたると見えて、『涌幢小品』に秀頼が兵敗走して和泉に入る。城焚きて死す。また薩摩に逃げ入るという者あり…」と記述するとともに、「これに拠れば、眞田信繁(幸村)は大坂に戦死せしには非らず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。
一方で、眞田幸貫は、幕末も近くになると、いろいろな書物に書かれたことから、幕府も松代眞田家の第8代藩主・眞田幸貫に尋問した時、「往時のことは戦火にて記録焼失して判り申さず」と逃げている。なお、眞田幸貫は、松平定信の2男で、眞田家の養子となり、のちに、老中として幕閣にも参加した人物である。
 『甲子夜話』は「信幸は、眞田三代記に眞田信繁(幸村)の薩摩落ちが語られたことから、頴娃の眞田信繁(幸村)と目されるこの人物に使いをやったが、使いの問いに対して、幸村は、(落ち延びた身であり、使いが本物かどうかも分からないので、間者かもしれないと疑心暗鬼になり、)自分が眞田信繁(幸村)であることを認めなかった」としている。
 天保14(1843)年に成立した眞田家の家譜「先公実録」中に幸村の伝記「左衛門佐君伝記稿」があるが、その中になど枚挙にいとまがない。「大坂の陣のあとに流行った童歌で『花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる眞田がつれて 退きも退いたり 加護島へ』というものがあり、鹿児島へ逃げ延びたとする童歌が存在する」「頴娃郡の浄門ケ嶽の麓に風来の山伏がおり、地元の人も恐れていたが、これが眞田信繁(幸村)だった」と記されている。


眞田信繁(幸村)と眞田信幸(信之)の書簡

 眞田信繁(幸村)は、雪丸に住んでいるとき、松代眞田家の藩主の父として生きている信之(信幸)と何度か手紙を交換していた。眞江田家・難波家では、「眞田信繁(幸村)が眞田信之(信幸)に幾たびか手紙を出した」という言い伝えがある。また、眞江田家(難波家)には「眞田信之(信幸)とやりとりした手紙が大事に保管され、現在も残っている」という。
 眞田信繁(幸村)研究の第一人者である小林計一郎(信州大学名誉教授、長野県郷土史家協会名誉会長、俳人・小林一茶の子孫、故人)は「真田三代軍記」の中で薩摩落ち後の眞田信繁(幸村)と眞田信之(信幸)の手紙のやりとりについて次のように記述している。
 眞田家の重臣・玉川家の配下の同心(足軽)某は毎年、伊勢代参と称して上方へ上った。その出発の前夜は、玉川と夜の明けるまで密談して出かける例で、しかも、ふつうの伊勢代参より7日も10日もよけいの日数がかかるのであった。同心の女房はそれを不思議に思っていたが、夫が重病にかかって命旦夕に迫ったので、「何十年も連れ添いながら、秘密をかくしておられるのは口惜しい。のこりなくお話ください」と責めた。そこで、その同心が妻に物語ったのは次のようなことだったという。
 「ある年、玉川の旦那の供をして伊勢参宮に行ったが、参宮ののち、熊野の裏山の方へ行き、2日ほど家も道もない所へ分け入ると、洞窟の前へ出た。玉川の旦那は私を口元に残して、一人で奥深く入っていかれた。さて、その後は毎年、伊勢代参の名目で私一人がそこへやられる。いつも状箱一つ持って行く。その状箱の上には『上』とばかり書いてある。岩屋へ着くと、内から白髪総髪で、髭が帯あたりまで下がっている七十余ほどの老人が出て来て、無言のまま状箱を受け取り、一夜過ぎてのち、返礼らしく、その状箱を封じ、上に『参る』とばかり書いて渡す。それを持って来って玉川の旦那に渡すと、任務は終わる」
(以上)
 私の話を聞いた眞田博明氏が松代藩14代当主・眞田幸俊宅を捜したが、手紙は残っていなかった。幕府が松代藩を改易する口実にすることを恐れて、届いた手紙を残さなかったのかもしれない。実際、松代藩は、石田三成からの誘い状を残していたが、幕末までずっとかたときも厳重な見張りを怠らず幕府に漏れないよう細心の注意を払い続けたくらいである。そのための見張り役もいたくらいだ。
 学者によってこの手紙が本物であることが証明されれば、眞田信繁(幸村)の薩摩落ちは、伝説などではなく、史実であることになる。大叔父さん(私の祖父(故人)の一番下の弟。故人)の遺志を引き継いで、私もそれまで頑張らなければならない。大助幸昌の行方の件もある。


眞田信繁(幸村)の隠密旅

眞田信繁(幸村)は、島津が徳川と手打ちとなったことから、鹿児島には居られなくなり、数年後に鹿児島を出たものという話もある。眞田信繁(幸村)の足跡から隠密に諸国を旅していたものと思われる。
九度山善名称院(眞田屋敷)の尼の物語──大坂落城後、元和2年の正月から、年毎に侍が一人来て、九度山の眞田昌幸の屋敷跡を拝し、村内の眞田信繁(幸村)旧縁の家に一泊して帰るということが9年間続いたという。10年目からは来なくなった。この侍は眞田信繁(幸村)の参代で、眞田信繁(幸村)が10年目に死亡したために来なくなったという。
 奈良屋角左衛門の話──眞田信繁(幸村)が蟄居時代にいた九度山に程近い橋本に奈良屋角左衛門という商人がおり、時々九度山の眞田信繁(幸村)のもとに来て碁の相手をしていた。眞田信繁(幸村)は大坂入城の時に碁盤を角左衛門に与えた。大坂の陣の翌春、眞田信繁(幸村)の馬の口の者が奈良屋に訪ねて来て、「相変わる事はないか。我らも無事だ」と眞田信繁(幸村)の口上を伝えた。それから5年間は年毎に口の者が来たが、6年目からは来なくなったという。
 飯田氏──秋田県大館市の浄土宗一心寺に眞田信繁(幸村)の墓がある。ここでは眞田信繁(幸村)は飯田氏と姓を変えている。秀頼が没すると眞田信繁(幸村)・大助幸昌父子は、その冥福を祈るため、諸国の霊場を巡礼し、北陸路から奥州路に入った。眞田信繁(幸村)は、ここでの俗名は市兵衛といい、寛永18年(1641)に76歳で没した。子の大助幸昌は元禄4年(1691)に89歳で没している。飯田姓を名乗るようになったのは、凶作の時に多くの金銀を藩に献納した功により名字を許されたので、故郷の地名にあやかったのである。上田ではなく飯田にしたのは幕府に遠慮してのことである。これについては、眞田博明氏は「鹿児島には1年年ほどいて、それから秋田の大館に向かった」と言いつつも、眞田博明氏の資料を見ると「これは違うのではないか?」と疑っていたことが分かります。


豊臣秀頼の逸話及び国松の行方

 谷山には、昔からある言い伝えがある。それは、秀頼が大阪から出航して薩摩に上陸した地点は、障子川の河口であり、しばらくはその南にある古屋敷に住んでいたが、その後、木之下に移り住んだというものだ。
 秀頼は島津家では手厚くもてなしていたが、なにしろ六尺豊かな大男で、酒好きである。おまけに酒癖が悪く、度々乱暴な振る舞いもした。
 『甲子夜話』は「大坂も落城し、徳川の天下も定まったのだから、秀頼が生きているのはわかっていたが、ほおっておいたのだろう」としている。また、「秀頼薩摩に行(きし)後、大酒にて処々にてこまりたり。酒の負債多くありしと」ともしている。
 秀頼は大男で、身長6尺5寸もあって酒好きだったそうで、身分を隠していても行動は目立つ。生まれてこのかた金銭の支払いの経験もないものだから飲食しても払いもせずに店を出てしまう始末である。無銭飲食を谷山では「谷山犬の喰逃げ(くれにげ)」というそうである。この言葉の起源は豊臣秀頼の無銭飲食にあるらしい。「犬」は「印」とも書き、秀頼が「印」を常に持っていたことに由来しているとしている。
 この「谷山犬の喰逃げ」については、「薩摩風土記」「甲子夜話続編」にも記録があり、この方言は歴史家たちの興味をそそったようで、東京帝国大学教授の星野博士は、明治25年(1892)『史学雑誌』にこの方言についての由来を寄稿していた。
 高柳博士という学者も、さらに、それを調査・研究し、その遺稿を発展させ、大正14年(1925)『中央史壇』に「豊臣秀頼薩摩落説」を発表したほどである。
中には、谷山には一夜にして人口が200人も増えたという記録さえある。
 そうした秀頼生存説を主題にした小説も数多く発表され、著名なところでは、大佛次郎の「生きている秀頼」「月の人」などがある。
種子島氏(島津氏の分家)が知覧を領有した時期があり、豊臣秀頼が種子島氏となった伝説があるのは、どうやらこのせいらしい。
大坂落城の際、豊臣秀頼・国松は、眞田信繁(幸村)・眞田大助幸昌、木村重成らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。(参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)
日出藩第18代当主・木下崇俊氏が一子相伝の言い伝えがあるとして、各テレビ局で証言している。国松は、薩摩に落ち延び、その後、日出藩に行き、北の政所ねねの実兄・木下延俊(大分県の日出藩三万石の藩主)に預けられ、木下延俊の四男(三男という説もある)として木下縫殿助延由と改名し、日出藩三万石のうち立石藩五千石を分け、立石藩中興の祖となった。立石の羽柴家菩提寺・長流寺にある位牌の裏には「木下縫殿助豊臣延由」という文字が刻まれている。八蔵、縫殿助。江戸幕府には延次と届けられている。眞田六文会の会長をしていた眞田博明氏はこれを「公然の秘密」と述べていた。


眞田大助幸昌の行方

眞田大助幸昌については、薩摩落ち説に基づく諸説がある。
 父(故人)によると、眞田大助幸昌は、島津貴久の弟・忠将に実子がなかったことから、その養子となり、佐土原島津家中興の祖となった。この件について佐土原町(現在、宮崎県宮崎市の一部となっている)に問い合わせたところ、「郷土史家もそのような話は聞いたことがない」という回答であった。年代も若干ずれており、何よりも、眞田大助幸昌が薩摩入りする前に、佐土原島津家中興の祖である島津幸久は既に亡くなっており、曾祖父(故人)や秀頼の子孫(故人)から話を聞いた際、何らかの取り違えがあったのかもしれない。
眞田大助幸昌については、別の記録もある。
 眞田大助幸昌の子孫と称する旗本がいた。蓮華院月牌帳によると、享保12年、江戸の旗本、従五位下滋野正周(八木主税助)という者が大助の位牌を立てているが、それによると、大助はのちに長佐衛門と称し、慶安4年(1651)7月20日に死んだという。「八木系図」によると、大助は落城後堺に住んで高井長佐衛門と称した。その子・平右衛門元理のとき将軍家綱に召し出され、その子・正周は綱吉に信任されて千五百国にまで累進した。『寛政重修諸家譜』には、八木は滋野氏の条に納められているが、眞田大助幸昌の子孫だとは書いていない。たぶん編集者があやしいと思って削ってしまったのだろう。また、讃岐国木田群井戸村の名族・眞田氏は、この地に逃げてきた眞田信繁(幸村)の子孫だという。
 秋田県大館市では、眞田大助幸昌は、はじめ「眞田長佐衛門幸昌」と称したが、のちに「信濃屋市兵衛」と改め、89歳で死亡、一心院に葬られたという
 しかし、いずれの説も信憑性に欠ける。
 眞田信繁(幸村)・大助幸昌が薩摩に落ち延びたが、江戸時代の鹿児島の人は、落ち延びていた眞田信繁(幸村)を芦塚大左衛門、大助幸昌を芦塚中左衛門、その子を小左衛門と呼んでいた。島原の芦塚家=「中の家」(島原では芦塚十左衛門と呼ばれていた。「中」が「十」に変化したが、芦塚中左衛門の名残で「中の家」と呼ばれているのではないか。「真田幸村の墓 島原半島に?」を参照)を眞田大助幸昌とすれば、鹿児島の記録ともつじつまが合う。
最近、私の先祖・「瓢左衛門」も「小左衛門」と誤って伝言されたのかもしれないと思い初めている。眞田大助幸昌の子かどうかはわからないが、現地(鹿児島県南九州市頴娃町牧ノ内・雪丸)では眞田信繁(幸村)の子とされている。


眞田幸村の頴娃潜入(傳説)

 「頴娃村郷土誌」では、次のように記述されている。
……(前略)……
第十一章 眞田幸村の頴娃潜入(傳説)
第一節 頴娃初代の地頭新納祐甫
慶長5年10月、伊集院忠眞が頴娃より帖佐に移ってから以後の頴娃郷は、又もともと通り、義弘公の知行所になったわけである。文政七年調査の「頴娃郷諸奮跡御糺帳」の中には
頴娃郡頴娃郷は建久のころ頴娃三郎忠長の領地にて、其子太郎忠房その子忠方その子忠次それより他家これを領す、承應のころ純友の末葉、頴娃次郎左衛門久純の領地にて、同じき左衛門尉憲統の代に島津元久公に叛き、御退治あり、御舎弟久豊公御領地となり十七年ほど御在城あり、日州穆佐御城代に移され、其の跡に肝付氏の二男左馬頭兼政に頴娃を下され代々領地のところ元亀二年頴娃家に内訌あり、天正年間、義弘公御誅伐、それより一郷に相立ち小由申伝へ候云々
とあり、右調書中、天正年間義弘公御誅伐とあるのは、何事を指すのか能く分らないが兎に角、伴頴娃氏の没落後わが頴娃村は暫く義弘公の知行所となったことは「西藩野史」にも明らかに記載してある、即ち伴姓頴娃氏彌三郎久音が天正十六年に薩州頴娃を立ち去って、谷山郷山田村に移つてから、慶長五年伊集院忠眞の頴娃所領まで凡そ十三年間になるのだが、其の十三年間に於ける頴娃郡頴娃郷は全く公領に帰し、其の間に文禄三年の三州検地あり、これと同地に三州諸族の異動あり其の時、わが頴娃村は島津義弘公の所領となったことは既記を経た通りである。
 さうして義弘公の所領時代わが頴娃村は一時源次郎忠眞の知行所となり、而して忠眞転出の後は再び義弘公の所領に帰し其以來、地頭を置き、いはゆる地頭政治を施行したものである。
 薩州頴娃公領直後、第一代の頴娃地頭は新納勘解由次官祐甫といふ武士であった、その新納祐甫は新納氏の一族で、五十からみの大柄な、赤ら顔の、如何にも元氣そうな好々爺であつたらしいが無論、数ある諸士の中から撰抜されて頴娃初代の地頭職に補せらるゝ程の男だから、相當學問もあり、見識もあり才幹もあつて穎娃一郷の民治と軍備とを兼ね掌るには、何等不足のなき人物であったことは決して想像に難くはない、しかしながら其の初代地頭の新納祐甫が如何にして、頴娃地方の民政と軍政とを兼攝?梅したか、これ等の事蹟は何等文献の徴すべきものもないから今これを明確に知ることは出來ない、…(中略)……
 が、しかし新納祐甫の地頭時代には……慶長十九年新納祐甫就任……大阪に豊臣秀頼の挙兵……慶長十九年九月の大阪冬の陣があり、翌元和元年五月の大阪夏の陣があり、世の中は随分物騒になって我が頴娃村の地にも大阪乱の軍資として相當出來を課せられたり、又は相當入数の出兵を促がされたり何かして、随分と事繁く、初代地頭の新納祐甫は着任匆々から民治軍備兩方面の事務に、どれほど苦労したか知れなかった。
 ところが―――
 其の大阪ノ亂後わが薩摩には御大将豊臣内大臣秀頼公を始め、眞田幸村、木村重成、大谷吉贏(刑部義隆の遺児)、後藤基綱、明石金登、伊木遠雄、北川宣勝等上下一千余人の大阪残党が続々と逃げ來り(鹿児島外史所説)、而して我が頴娃村には大阪方の大立物であつた眞田左衞門幸村が乗り込んで来るし(古老談)直ぐお隣の山川町には大阪陣の花形役者木村長門守重成が潜入するし(傳説)したから猶のこと、新納祐甫は其の取締や何かのため頗る多忙を極めたことだらう。
「薩藩舊傳集」には
木村長門守は大阪落城の後、加治木に落ち來る、名は有丘、伊左衛門と申し、小屋掛に居り、圍碁に耽る、萬治二年六十二歳にて死す、加治木安國寺に墓あり、書類行季に入れ、天井に吊す、死去の際焼き捨つ、槍は柄の末、切り捨て一間ばかりあり、さゞらのやうにつぶる、加治木曾木家にあり云々
また「薩摩風土記」には
鹿児島下町の上方問屋に長門守跡系圖ありといふ、木村權兵衛という人あり、これ木村下町納屋通上に山口氏の八百屋あり、眞田の末といふ紋六文銭をつけるあり、同所仲町にかつさやあり秀頼の書物ありと云々

第二節 眞田幸村は日本一ノ槍の一人
眞田左衞門幸村は入薩摩後、名を芦塚左衞門と改み、其ノ谷山に潜伏してゐたが、其の眞田幸村は見上げる如き大男にて智謀湧くが如く、勇氣また人に勝れ、好んで長槍を使つたが其の槍術は、頗る精妙を極め、後藤又兵衞の投げ槍、木村又藏のシバキ槍、眞田幸村のハネ槍と言つて、其のころ天下三槍の名が世上に轟き渡つたものだつた、さういふ希代の豪傑が我が頴娃村に突然しかも秘密裡にやつて來たものだから、其の當時の頴娃人はどれほどの衝動を受け又はどんな感銘や感化を受けたことだつたらうかだが、其の時、眞田幸村は必ず其の身の素姓を包み又は姿を變へたり、名を變へたりして、こつそり我が頴娃村に忍び入つたに相違ないから、其の當時の頴娃人は別にそんな豪傑とは知らう筈はなく、從つて唯が何拠かの風來坊がやつて來たぐらゐで、何等衝動を感じなかつたかも知れない。
尤も其のころの薩摩人は、眞田幸村を芦塚大左衞門と呼び、其の子の大助幸綱を芦塚中左衞門と呼び又その孫を芦塚小左衞門と呼んで居たさうである(鹿児島外史)さうして眞田幸村の子大助幸綱は後年―寛永十五年正月、豊臣秀頼の子天章四郎豊禎(或は天草四郎時貞に作る)を惣大将に押し立てて、前肥島原にキリシタンの大騒動を捲き起こした大豪傑であつた。
眞田幸綱等が盟主に戴いた天草四郎豊禎は豊臣秀頼が元和元年五月、大阪夏の陣後、大阪を脱がれて薩藩へ逃げ下つて來てから、鹿児島上町谷村酒屋の娘お何に、生ませた隠し子で、其の豊禎といふ名前は豊家まさに興らんとす、必ず禎祥ありの義に據つて名づけたものである。
其の天草四郎豊禎は祖父豊臣太閤秀吉にも劣らぬ程の大豪傑で、その聰明雄略まことに倫を絶し、其の時わづか十四歳の若?ながら馬を一陣に進めて、三軍を統率指揮するところ其の祖父豊臣太閤秀吉が木下籐吉郎時代の武者振りを其のまゝ目に見る如き心地して、敵も味方も天ツ晴れ武者振りよと感嘆措かなかつたものだつた。
だが、其の神童天草四郎豊禎も、天下の大軍にはとても敵對出來るものでなく、彼等が金城湯池と頼んだ肥前の原城は幕將松平伊豆守信綱等十二萬余の聯合軍から十重二十重に攻め圍まれ遂に元和二年二月二十八日もろくも落城した、其時、天草四郎豊禎の大軍師森宗意軒は、得意の幻術を使つて島原一圓、黒暗々の大魔界となし其の隙に四郎豊禎以下の残黨を薩摩に逃げさせた。

第三節 天草騒動と大阪殘黨
天草四郎豊禎の子孫は、谷山郷木下村にあり、代々百姓となり、然かも其の家には豊臣秀頼が遺愛の金煙管および豊臣秀吉が千成ひさごに似せて作つた金串柿九十九連、其の他の珍品を襲藏したものだつた、また眞田幸綱の子孫は山口の苗字を名乗り家の紋には六曜星を使用したが、其の六曜星を俗間では六文錢と誤まり傳へてゐる。
ところで―頴娃別府村淵別府には、眞田幸村が一時潜伏して居つたといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と稱する古墳がある、土地の故老の實話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃醉つぱいものを非常に欲しがるやうになつた。
でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやつた、さうすると間もなく月満ちて、其の女は産の紐を解き、丸々と太つた玉の如き男の子を生んだ、其の男の子こそ眞田幸村の隠し子であつて、後に眞江田某と呼び、苗字帯刀を許された男である、さうして眞田幸村の子孫は今現に頴姓村別府大川にあり、其の姓名を眞江田三左衛門といふ其の眞江田は眞田をもぢつたもので、三左衛門は左衛門をもぢつたものである、若しも世が世であれば眞江田三左衛門幸〇と名乗つて、一廉の武士にでもなつて居るべき筈である。
……(後略)……


谷山の歴史

 谷山市史では、次のように記述されている。
……(前略)……
九 豊臣秀頼の薩摩落
 谷山市下福元町木之下部落に豊臣秀頼の墓と称するものがある。多宝塔で、塔身は円筒形、高さおよそ二メートル、円筒の直径六十二センチメートルである。
 西藩野史には「秀頼の臣堀内大学助藤原右京亮竊に隅州加治木に来り密に人に語て曰、聞く秀頼君偽て大坂城に死し亡命して薩陳の間に匿ると、故に来りてこれを求む。或説云時に薩州谷山に来り居る者あり、背高くして色白し、顕貴の相あり、邑人疑て秀頼ならんといふ。子孫あり農民たり、此ところ称して木下門という。」と書いて秀頼の亡命説をとりあげている。有馬温泉の会話と題して「寛陽院様有馬御湯治に御越被遊候節、色紙六左衛門も御供にて候処、老人参候て六左衛門へ相尋申候は私には故ある者にて御座候、秀頼公は薩州へ御下被成候由承居申候、いつ頃御死去被成候やと無拠懇望に相尋申候、六左衛門被申候は、秀頼公は於大坂御生害被成と承及候、薩州には御下り無之由、返答にて候と也、六左衛門殿右の老人へ、御方はいかなる御人いつれに御座候やと相尋被申候へ共、只故ある者にて御座候と計爲申由にて、何たる者とも不相知候由」、これは薩藩奮伝集補遺に載っている。亡命否定説である。
 「薩摩風土記」上中下二巻のうち下巻にも秀頼のことを載せてあるが、「異本薩摩風土記全」には絵図を二か所へ入れて、次のように記してある。
 谷山の町はつれに木下角という処あり、赤松の大木の下に五輪の塔あり、両面に公家束帯の像あり、こけむして誰の石碑というをしらす。大坂の人々此辺に住浪人姿にて世を送るとみへるなり。俗にいいつたへには、秀頼たいてう中町をあはれあるくとゆふ殿より仰渡されハ此御人に一切無札のなきよふにとの御触にて人々其なまよいを見侯ヘハにけるとこ去れ秀頼公なるへしと云。今に谷山よいくらゐハかなわぬといふハ武家にもらぬやうに、にけかくれするなり、あヘハとちうにても無心をゆいかけこまるといふ事なり。上町の地蔵堂は秀頼公乳母子老母とあとをとむらひ堂立朝夕回向を仕たる地蔵とも云なり。上町右地蔵堂の裏に池の権現とゆふ石墓あり、八ケ年跡より京絵図人のこつをほり出す、是も大坂人の品者といふ。又下町の上方問屋に長門守跡系図存といふ木村権兵衛と云人有リ、是木村、下町納屋通上に山口氏の八百屋あり真田の末と云う、紋六文銭を付すなり。同所仲丁にかつさや有なり、秀頼の書物ありという。後藤、真田の跡武家にて大侍にあり、紋所も其儘されしといづれを本非といふをしられつ、人にききてもわからす、これハはるか末に召出し扶持せしものとみへるなり。」と。絵図の一は千地蔵堂を画き、説明は大坂秀頼の古碑上町地蔵町の角に地蔵堂あり、秀頼石碑祭と俗にいう。いずれこの地に人々おち下り、身をひそめていたものと思われ、谷山にも古石碑がある。絵図の二は大坂人の塚なりというと説明して、現在の称秀頼墓によく似て描かれ、塚の本に松の大木がかかれている。「谿山諸記」には次の記事がある。
 福元村木ノ下門名頭屋敷内
一塚木松壱本目通壱丈三尺廻り
 右塚ハ天保七申六月大風ニテ倒木二相成諸人申受取除トカヤ、右松ハ往昔木下藤吉持来候ト云々
  右松下二古キ墓アリ。道清禅定門ト銘アリ。
 右同村福留門名頭屋敷内
一、古塔 高サ八尺五寸午方仏像子方衣冠之像彫刻有之文字不相知霜崩アリ。壱基
 右ノ塚木松ヨリ壱町半程東方二地ノ神ト申伝ヘ霜月一度ツツ祭来由緒不詳候処寛政十二年庚申六月御記録奉行本田孫九郎殿御廻勤之節塔下深サ一丈程御改有之候得共誌無之勿論墳墓之躰二茂不相見得爲何訳モ不相分候故弥以申伝候通地之神ト得心待自然由緒相尋候人モ有之候ハバ右之趣相答可申旨可申置与被仰渡置候
一、正八幡宮 一社
 神躰幣帛。但由緒相知不申候下福元村之内木之下門江牢人罷居相果候以後百姓共ヨリ建立爲仕由申伝候
 以上であるが、正八幡宮は「三国名勝図絵」を見ると社殿も鳥居もりっぱなものである。現在は石祠だけになっている。谷山南麓伊集院家は目代という役目で、鹿児島から秀頼監視のため派遣した格の高い家柄という理由で秀頼の谷山亡命を肯定しており、当時の伊集院家の屋敷は現在の南麓長野家で、広い屋敷をめぐらした石垣は秀頼在世のころのままであるとのこと。又下福元古屋敷は秀頼が薩摩落ちの際、障子川口より舟で古屋敷に上陸し、ここに暫時住まい、のち、木之下へ移つたと伝え、「天下山」という地名もあり、昔より木之下姓も五、六軒あると伝えている。谷山を訪れる観光客は秀頼の墓をたずねることにしているようである。昭和十年ごろ、谷山を訪れた紀行文の大家吉田絃二郎は谷山を訪れ、秀煩の墓だけに参り、記念に伊地知栄二村長、有山長太郎父子、佐多峯太郎校長とともに撮影し、「我が旅の記」の著書の中に、秀頼の谷山亡命を肯定して、名文を一節載せている。その時までは石塔に衣冠の像が刻まれてあると記している。
 谷山市の隣村吹上町中原の旧家宇都家に伝わる木盃ならびに茶碗は、谷山木之下に住んだと伝えられる豊臣秀頼が用いられたもののようであるといわれ、その品の由来書が谷山に寄せられた。ここに紹介する。
 木杯並茶碗ノ由来
相伝フ予カ八代ノ遠祖善兵衛君(天和貞亨元禄ノ頃)常二遊猟ヲ事トシ近郷ノ山野到ラサル処無シト、当時谷山郷福元村木下門何某ナル者、尤獣猟ヲ?会合シテ遂二交際親密ナリ、一日木下門に宿ス、某伝テ云フ、家二珍蔵スル木杯乃茶碗アリ、嘗テ老祖母ノ言二此レ上国ヨリ高貴ノ人難ヲ遁レ此里二隠栖シ給ヒ朝夕此器ヲ用ヒラレタリト、又当時此家ノ祖先ナル者親道シ、時トシテハ此茅屋二来臨セラレタリト、或ハ云フ拝受セシ物ナリト、又云フ高貴ノ人二供シタルニ由リ惣緒二付ス可ラス啻二秘スルノミ、君ノ一覧二備ヘン、之ヲ見レバ真二稀世ノ逸品ナラシ、某請フニ譲与センコトヲ以テス、某マタ意トセス輙ク与ヘタリト云フ、前述ノ由来アルニ由リ毎歳孟蘭盆会二ハ、遠祖ノ霊前二供スル此器ヲ用フルヲ例トセリ、明治初年神祭トナリ、他器ヲ備フル二至レリ、木杯ハ家ノ重大ナル祝日二供用スルノミ、世俗二云フ、豊臣秋頼難ヲ大阪二遁レ、同所二隠遁シ給ヘル二ヨリ今二木ノ下門ノ名称アリト、恐クハ高貴ノ人トハ公ナランカ、今ヤ筥裡二蔵メテ後昆二伝ルニ至ル、然リト雖モ其ノ由来ヲ詳記セラレバ或ハ後世瓦礫視スルアラン乎、故二口碑二伝フル所ヲ叙テ後世二伝フルコト如此
  明治三庚午歳七月吉辰善兵衛君八世ノ孫爲謹子識
 附記木杯ハ亘リ五寸二シテ高サ一寸六分中二五七ノ桐二唐草ノ金絵アリ中二浪ト千鳥ノ模様アリ酒ヲ盛ルトキハ宛然浪動キ千鳥飛ブガ如シ裏二瓢箪ノ模様アリ塗ハ朱ノ土黒キ色ナリ、茶碗ハ壺茶碗ナリ響焼キニシテ延ベ金ニテ牧絵等アリ、又世俗二伝ヘ云フ野猪百頭ヲ銃斃スル者ハ仏二供養ヲ築クトノコトアル故二遠祖ハ九十九頭ヲ獲テ猪獵ヲ止メラレシト今現二伝フル所ノ和銃ハ名工田代半助ノ製造即チ之レナリ
 昭和三十六年五月十六日
 吹上町中原 為儀翁嫡孫宇都為秀提供
……(後略)……


眞田幸村の墓

『鹿児島外史』(『島津外史』ともいう)の中に「眞田信繁(幸村)の薩摩落ち」が記されていた。眞田幸村は夏の陣のあと、豊臣秀頼を護衛しながら、海路薩摩へ逃れたとしている。鹿児島市谷山地区には秀頼のものと伝えられる墓も残っており、鹿児島県南九州市頴娃町牧之内・雪丸には眞田信繁(幸村)の墓もある。島津藩主にしか許されていない山川石が使われている。頴娃村は一時期、薩摩藩藩主となる前の島津義弘の所領となったこともあり、島津義弘の墓とする説もある。島津義弘が「これを鹿児島から出て行った眞田信繁(幸村)のものと思え」と言ったともいわれる。何の刻印もないのはこのためらしい。
 インターネットで調べたら、次のようなものもあった。
眞田信繁(幸村)本人の薩摩入国と我子誕生について。1615年5月7日大坂城落城と同じくして、城地下通路を抜け、内堀(現在の浄水場)から平舟で秀頼・淀君を警護しながら大阪湾に向かう河野水軍。徳川村上水軍に佃家系が見張り役を勤め瀬戸内を抜け、大分佐賀関港経由で薩摩に入国。秀頼谷山氏の頭首として迎えられる。幸村隣りの頴娃村で地元の娘に子宝が、眞田の氏に江(近江)の母(地元の娘)の出身の互い重ねた眞江田氏を名乗る。眞田信繁(幸村)と婚姻が許されず、入国に協力した島津貴久公の供養塔を幸村のお墓として末裔に継承され、現在雪丸氏・田原家系と共に。隣村に佃氏の見張りが眞田信繁(幸村)・秀頼の情報が、徳川幕府に報告。この事実が現在に継承される。鹿児島教育委員会「定かでない」幸村・秀頼の供養塔。
(以上)
 揖宿郡山川町(現在は指宿市の一部となっている)では、秀頼が御用金を運び込んで、どこかに埋めているという噂が広がった。後述の為衛門は、この御用金をずっと探し続けていた。眞田信繁(幸村)の墓の横も穴を掘ったが、何も出てこなかった。このため、幸村の墓の横に穴を掘った跡がある。
 また、昔、真田十勇士が流行っていた頃、多くの学者や研究者が度々訪れていた。そして、この人たちが、ここにきた印として、小石を一つずつ置いていった。このため、雪丸の眞田信繁(幸村)の墓に無数の小石が置かれている。大叔父さん(私の祖父(故人)さんの末弟)は、この人たちに眞田信繁(幸村)と眞田信之(幸)が手紙をやり取りした時の手紙を鑑定するように依頼したが、見てもらえなかった。詳細は後述。
 しかしながら、眞田信繁(幸村)の墓はあるものの、眞田信繁(幸村)がこの地で死んだという記録はなく、墓には何の文字も刻まれていない。


豊臣秀頼の末裔

 木下俊煕氏(故人)は、豊臣家18世の末裔であり、「秀頼は薩摩で生きていた」(以前は、谷山市立図書館にあったが、現在は、鹿児島市立図書館に移され、その郷土史コーナーで閲覧できる)という著書まで書いている。その著作の根拠の一つとなったのが、鹿児島市の谷山にある秀頼の二つの墓だ。一つは上福元町にある宝塔で、もう一つはその近くに流れる木之下川の畔にある二基の供養塔である。供養塔がある所は、木下俊煕氏(故人)と同じ姓の木下秀城氏の所有地だったところだ。これについては初代谷山氏の供養塔という説もある。
 揖宿郡山川町(現在は指宿市の一部となっている)より北側に、姫君(故人)という秀頼の子孫が住んでいた。この姫君(故人)は、鹿児島ラサール高校卒である。姫君(故人)の夫・為衛門(故人)は、山川町の町会議員を長いことしていた。この為衛門(故人)は、もとは刀鍛冶であった。
 山川町では、秀頼が御用金を運び込んで、どこかに埋めているという噂が広がったことがある。いわゆる、御用金騒ぎである。なお、斎藤吉見(作家、元新聞記者。平成17年没。故人)氏は、頴娃町を訪れたとき、教育委員会の方に眞江田幸一の家や眞田信繁(幸村)の墓を案内してもらい、この取材に基づき、「真田60万両の疑惑」という小説を書いた。
為衛門(故人)は、この御用金をずっと探し続けていたが、とうとう見つからなかったという話である。幸村の墓の横も穴を掘ったが、何も出てこなかった。このため、雪丸の眞田信繁(幸村)の墓の横には大きな穴が開いている。この為衛門(故人)という人が揖宿郡の郷土史に大変詳しかった。
山川町には、同じく秀頼の子孫で、為義(故人)という者がおり、父(故人)は従妹(故人)と一緒にこの為義(故人)のところへ行き、豊臣秀頼、眞田信繁(幸村)らの薩摩落ちに関する話をいろいろ聞いた。この為義(故人)の長男は、鹿児島ラサール高校卒後、ここの事務員をしていた。山川町には、淀君(故人)の物ではないかと言われる品があるそうだが、真意のほどは分からない。


眞田幸村の末裔(眞江田家)

 島津義弘は関ケ原の合戦で徳川家康と戦った。徳川幕府の宿敵である島津が実は秀頼や幸村らを匿っていたという伝説は、倒幕後、明治になってからやっと公に語られはじめた。
 伝説では、眞田信繁(幸村)は秀頼亡き後、更に南に落ちのびていった。鹿児島県南九州市頴娃町牧之内には、雪丸という地名が残されている。浄門ケ岳の麓に幸村が住んでいたことから、ここを雪丸と呼ぶようになった。南九州市頴娃町別府・大川に眞江田幸一(故人)が住んでいた。この眞江田という苗字は、眞田の2文字の間に江という字を挟んだものである。
江戸時代後期、眞江田菊蔵(2世)の子供には、市左衛門、難波周八(2世)、三左衛門のほか、児玉ヨシなど5〜6人の女子がいた。
眞江田三左衛門(故人)は、台湾で育ったので、眞田信繁(幸村)のことを何も知らなかった。曾祖父・難波周八(故人)が台湾から眞江田三左衛門(故人)を呼び戻し、長兄の眞江田市左衛門(故人)に実子がなかったことから、眞江田市左衛門(故人)の養子とし、眞江田本家を継がせた。難波周八曾祖父さん(故人)は眞江田三左衛門(故人)を頴娃町役場に紹介した。眞江田三左衛門(故人)は水成川区長と町会議員を兼ねていた。一度は、町議会議長をしたこともある。眞江田市左衛門(故人)、難波周八(2世、故人)、眞江田三左衛門(故人)の3兄弟は、明治になってから紋付きと袴のおそろいをつくり、家宝として伝えている。その紋は信州眞田の旗印と同じ六文銭である。眞江田三左衛門(故人)の子は吉村(故人)で、その子が眞江田幸一(眞江田三左衛門の孫にあたる。故人)である。
眞田博明さん(真田六文会会長。故人)は、総理府を退職した後、観光のつもりで全国各地へ赴き、眞田信繁(幸村)や豊臣秀頼や国松が落ち延びた場所(大分県の日出や鹿児島の谷山や頴娃、秋田の大館など)を旅行した。眞田博明氏(故人)は、頴娃町教育委員会の人たちの案内で鹿児島県揖宿郡頴娃町別府・大川の眞江田三左衛門(故人)の孫・眞江田幸一(故人)の家を訪ねた。眞田博明さんは眞江田幸一(故人)宅を訪ねていろいろ聞いたが、眞江田幸一は「ご本家に聞いてくれ」と言うばかりで埒が明かなかった。また、頴娃町教育委員会の人たちは眞田博明さんに「雪丸に眞田幸村の墓がある」と言ったが、既に夕方になっていたので、眞田博明さん(故人)は雪丸の真田信繁(幸村)の墓を見に行くのを断念した。
眞田博明氏(故人)はそのとき撮った映像をNHKの番組「歴史誕生」(眞田博明(故人)監修)にごり押しして挿入させ収録を終えた。こうした中、私が学習院の桜友会名簿で調べて松代眞田家当主の眞田幸俊(当時、慶應義塾大学工学部電子工学科の学生)に父(故人)が書いた系図と労働省労政局労働組合課の名詞を送ったら、代わりに眞田博明さん(故人)が労働省労政局労働組合課に私を訪ねてきた。眞田博明氏(故人)は放送の予定日を私に知らせた。その後何度か訪ねて来て私と資料交換・情報交換を行い、眞田博明さんが「この系図では1代足りない」と言うので、叔父さん(故人)に尋ねたら知っていた。新しく立て替える前の難波家の墓に代々の眞江田家の系図が書いてあった。また、私に「眞田大助幸昌の行方を調べてほしい」と依頼しました。
平成2年、NHKの番組「歴史誕生」で、日本三代英雄(源義経、坂本龍馬、眞田信繁(幸村))不死伝説の一つとして眞田信繁(幸村)の薩摩落ちが紹介された。1分間ほどだったが、鹿児島県揖宿郡頴娃町別府・大川に住んでいた眞江田幸一(故人)とその母・フク(故人)が動画で紹介された。我々が母(故人)の法事で鹿児島県川辺郡知覧町塩屋に行った際、ついでに揖宿郡頴娃町別府・大川に眞江田幸一(故人)宅を訪ねたら、眞江田幸一(故人)の母・フク(故人)が「頴娃町で評判になった」と喜んでいた。現在、全国でも2人の息子とその家族の10人しか眞江田姓の者はいない。
歴史研究をする眞田家一門と家臣団で構成する眞田六文会は歴史研究を行い、ときどき総会を開き情報交換していた。眞田博明さん(故人)は平成17年に96歳で亡くなった後、眞田六文会は、会員が高齢化し、次の世代も関心を持たないため、今は活動していない。
その後、私が雪丸の真田幸村の墓の写真を撮り、「歴史と旅」(秋田書店)やテレビ東京の番組「歴史ミステリー」に雪丸の真田幸村の墓の写真を提供した。初めてテレビ放送で眞田幸村の墓の画像が流れました。また、斎藤吉見氏が「真田60万両の疑惑」という小説の本の中で、初めて雪丸の真田幸村の墓の写真が世に出ました。
眞江田幸一(故人)には異母妹(竹迫)がおり、長澤親義(故人)の妻となった。長澤親義の異母兄・長澤実義(故人)は鹿児島ラサール高校の教頭となった。鹿児島ラサール高校から東京大学に進学した労働省のキャリア組の者は長澤実義(故人)は国語の先生と言った。
 雪丸の眞田信繁(幸村)の墓がある山林を所有している田原武雄元参議院議員(陸軍士官学校第11期生で、戦争中は陸軍中佐で、戦後は鹿児島県農業経済連副会長をしていた。故人)は、戦後間もない頃、父(故人)が青年団長をしていたとき、選挙の際、「同族だからよろしく」と言った。この人も眞田幸村の子孫と言っており、父(故人)はこの人からも眞田信繁(幸村)についていろいろ聞いた。


頴娃町別府大川難波家

眞江田周八曾祖父さん(故人)は、江戸時代末期に生まれたが、「難波」という武家の株を買った。本来の難波家は島津藩の重臣で、明治以降は医者を生業としている。本家だけが難波家を名乗り、分家は難波家を名乗らない。周八曾祖父さん(故人)はそうした難波家の分家から難波姓を買ったのであろう。あのあたりで、難波と言うと、医者の難波先生を指す。そして、難波周八曾祖父さん(故人)は池田清元衆議院議員(警視総監から京都府警本部長に左遷されたことがある。故人)邸に書生として下宿していた。このとき、難波周八曾祖父さん(故人)は、この池田清元衆議院議員(故人)から眞田信繁(幸村)が薩摩落ちした時のことについていろいろ聞いた。その後、難波周八曾爺さん(故人)は、薩摩藩藩校造士館(現在の鹿児島大学、旧制7高)の塾頭(学長)となった。引退後、難波周八曾祖父さん(故人)は、頴娃村別府・大川に戻り、栗が窪小学校の主席教員(校長)をしていた。
 難波周八曾祖父さん(故人)は、眞田信繁(幸村)から代々伝えられてきた「おねぐい」の鞍、親鷲上人直筆の掛軸等を家宝として持っていた。幸村の遺産はいろいろあったらしい。「おねぐい」の鞍は、秀頼から賜わったもので、「かごどん」(“鹿籠”=枕崎市の殿様、島津尚久の末裔)と酒飲み比べをして、負けたため、この「かごどん」に取られてしまった。このため、難波周八曾祖父さん(故人)は、上京をあきらめてしまった。また、眞田信繁(幸村)の子孫ということにねたみを持つ近辺の人間によって虐められた挙句、つけ火(放火)された結果、眞田幸村の遺産も焼けてしまった。晩年は、自分で建てた小屋に書物を運び込んで、読書三昧の暮らしをした。難波周八曾祖父さん(故人)にはそのおばが自分たちの商売を継ぐように勧めたが、「自分には商売は不向きだ」と言って断ったことがある。
眞江田幸一(故人)の母・フク(故人)や父(故人)によると、難波周八曾祖父さん(故人)は、背丈が6尺(約180cm)で筆者の兄をそのまま背丈だけ高くしたような感じで骨太の偉丈夫であったそうだ。眞江田フク(故人)によると、難波周八曾祖父さん(故人)は毛筆で微積分を解いていたそうだ。難波周八曾祖父さん(故人)は昭和初期に73歳で亡くなった。初孫であった父(故人)が難波周八曾祖父さん(故人)に添い寝していたら、朝、起きたら難波周八曾祖父さん(故人)は亡くなっていた。糖尿病だったと思われる。初孫であった父(故人)は、4、5歳位のとき、この難波周八曾祖父さん(故人)からいろいろ話を聞いた。
難波周八曾祖父さん(故人)には夭折した女児1人のほか6人の男児がいた。そのうちの一人が私の祖父(故人)です。祖父(故人)はMア本家に婿養子に入り、Mア姓に改姓した。
難波周八曾祖父さん(故人)の妻の伊勢曾祖母さん(故人)の実家の荒武家は網元かつ士族であった。伊勢曾祖母さん(父(故人)や私や弟に顔が似ている。故人)は、荒武家の長女で、弟が荒武本家を継いだ。伊勢曾祖母さん(故人)は93歳で亡くなった。難波周八曾祖父さん(故人)は、資産家であった(荒武)伊勢曾祖母さん(故人)と一緒になるとき、荒武家がたくさん所蔵していた書物を所望した。
 大叔父さん(私の祖父(故人)の一番下の弟。故人)は、戦時中、陸軍の政治工作員をしていたが、その時、フィリピンの王族の女性に近づいた。その女性との間に2人の子ができ(既に日本に帰化している)、帰国後結婚した義大叔母さん(故人)との間に3人の子供がいる。
父(故人)の従弟の一人は、鹿児島県で学業成績が2番を大きく引き離してダントツの1番だったため、当然、東京大学に入学するものと思われていたが、東京工業大学(当時は東京高専と言っていた)に入学した。在学中に亡くなったため、あまりに頭が良すぎたため、毒殺されたという噂が広がったと言われる。
「真田十勇士」が講談で流行っていた頃、学者や研究者が大勢来た。その時、大叔父さん故人)は、薩摩落ち後に薩摩落ちしてから眞田信繁(幸村)と眞田信之(信幸)がやりとりしたときの手紙を見せたが、その学者はこの話を知らなかったからか見もしなかった。大叔父さん(故人)の末子(私と同い年だが、父(故人)の従弟に当たる)は「(薩摩落ち後に眞田信繁(幸村)と松代藩主・眞田信之が数回やりとりした)手紙がある」と言っている。眞田信繁(幸村)研究の第一人者である小林計一郎は公正な態度をとるとして「眞田三代軍記」の中で薩摩落ち後の眞田信繁(幸村)と眞田信之(信幸)の手紙のやりとりについての記録も取り上げている。
私は、いろいろな本で調べたり、父(故人)の話を口述筆記したり、親戚の伝を使って資料を取り寄せたり、各方面に問い合わせたり、客観的に記述した。その後、平木場太おじさん(父(故人)の再従弟で、父より16歳より年下。元知覧町助役。故人)に鹿児島の資料を捜してくれるよう依頼したら、鹿児島外史、薩藩旧記、谷山市史、頴娃村郷土史、頴娃町史などの写しを送ってくれた。鹿児島外史(島津外史)は漢文であり、薩藩旧記は鹿児島の古文であるため、小林計一郎氏に解読を依頼したら、弟子を使って解読してくれたが、平木場太おじさん(故人)が違う箇所をコピーしたため役に立たなかった。
この後、テレビの歴史番組をみたり、インターネットで調べたりして、新説についても言及しながら補強し続けた結果、この原稿ができました。これは現時点の最新説です。今後、新しい資料や新説が出れば更に補強していきます。

谷山正夫

私は谷山正夫と申します。一つ前の投稿『真田幸村末裔』を
拝見させていただきました。私も鹿児島県知覧の出身なので、
ある意味濱崎様のお話を身近に感じました。

私の祖父(明治生まれ)の姓は難波で、男の兄弟が三人いて、
祖父は三男でした。当時は長男だけが家督を継げて、次男、
三男は別に独立するか、同じ身分のところへ
養子に行くとかするのが習いとしていたようです。
それで三男の祖父は同じ知覧に住む
谷山家に養子入りしました。因みに兄弟三人とも
外科の医者でした。

自分の先祖については、父が私が未だ若い頃谷山家や
難波家について時折私に語ってくれましたが、
全く興味がありませんでした。むしろそれに対し今はどうなんだ、
とか無知蒙昧なことを言って反発したものでした。

今50歳を半ばにして、ようやくちょっと調べてみようか、
といった感覚ですが文献などを読んだりすることがあります。
父からは谷山家は平家、難波家は藤原氏系であると
聞かされてきました。こういった調査には
パソコンのホームページも役に立つことがあります。
ところが読者のかたの一部には、
問い合わせに対して自分が予想もしていなかったような、
お叱り(罵倒にもとれる)を受けたりしました。

私の調べたかったことは、700年〜1000年前に
遡ることなので、証拠となるような文献がほとんどありません。
現代のハイテクに関する特許などと同じように、
先に出願したものだけが唯一真実であり
それ以外はないものと断定されてしまいがちです。
私は今でも正当かと思えるような異論があっても
先祖の伝えてきたことを信じたいと思っています。

一つ前の投稿をした方の場合(歴史の専門家でない)、多くの文献や
言い伝えを集め、他に分散しておられる一族の方との
交流をされており、既に一般的に認知されていると思います。
これも知力と努力の成果として、
よくここまで調べられたことに敬意を表しております。





投稿本当にありがとうございました。

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