第九回(長谷堂の戦い{東北版関ヶ原})

井伊直政

これは最上義光が西軍につくも、
家康が会津討伐すると東軍になり
上杉景勝が最上領に入り長谷堂城の
志村光安を囲み、義光は政宗に助け
を求め、勝った。


天下御免丸

慶長5年、徳川家康は上杉景勝に謀反の心得ありと大軍を進めた。
この機に乗じ、石田三成が大阪に兵を挙げ生起したのが
関ヶ原の戦いであったが、西軍となった上杉軍と
東軍となった最上義光軍の戦いが山形県で起こりました。
当時、会津に本拠を持つ上杉家は、山形内陸南部
(山形県は人の横顔の形をしています。口の辺りに米沢があります)
の米沢が直江兼続の領地でしたが、庄内地方(日本海側で目のあたり)も
傘下に収めており、この連絡線の確保と、
徳川軍の再度の侵攻に備えるために山形城主・最上家を攻撃しました。
当初、徳川軍の進攻の報を受け東北各大名が参集しましたが、
家康が軍を返し関西に向かうと上杉家の武威を恐れて胡散霧消し
最上家が単独で矢面に立つとことになりました。
(伊達政宗は上杉・最上の共倒れを狙って動かず)
上杉軍は、上山(かみのやま)城攻略軍、狐越街道からの軍が米沢から、
六十里街道からの軍が庄内から山形(頬のあたり)に迫りました。
山形盆地の東の端・扇状地に作られた山形城は同心円城に
四角い郭を三重に重ねた広大な平城です。
(二の丸の一辺が300〜400メートルあります)
しかし、上杉軍は直江兼続が軍を率い、米沢から山形盆地に入りました。
三方から進攻された最上義光は、上山城、畑谷城・長谷堂城(狐越)
の守りを固めますが、山形城を動くことが出来ません。
(伊達軍は国境で傍観・後に留守政景が兵を率いて山形城の防衛に加わった)
上杉軍は、上山での合戦で破れ、長谷堂城の攻略に手間取っている間に
関ヶ原の西軍敗戦の報がはいります。
軍をまとめて米沢に引こうとする上杉軍を最上軍は激しく追撃しました。
(「花の慶次」にこの折、迫る最上軍を慶次が蹴散らすエピソードがあります)
山形城大手門には、長谷堂救援に向かう
最上義光の姿を模した銅像があります。
この一連の戦いにより、最上家は庄内を領国に加え
57万石の大名となりました。
一方、伊達家は対上杉軍との消極的な戦い振りも有って
100万石の夢は潰えたとも言われます。





投稿本当にどうもありがとうございました。
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