第八回(長篠・設楽ヶ原の戦い)
真田大助
この戦いの発端は、長篠城の城主奥平貞昌(後の信昌)が武田方から
徳川がたについたことです。怒れる勝頼は1万5千の軍勢で
5百の兵がこもる城を包囲しました。
それを救援する為に家康は軍を派遣、信長も援軍を
みずから率いてきました。
結果はご存知のとおり武田の大敗北に終わるのですが、
それには勝頼の戦略性に問題があったのだと思います。
武田軍の目標は徳川領にくさびを打てる長篠城を
取り戻すことでしたのに、信玄以来の武将の提言をはね、
勝頼はわざわざ設楽ヶ原まで出張って馬防柵に突撃していきました。
武将の信頼を得る為に大きな武功を立てなければいけなかったとはいえ、
お粗末な戦術に思えます。
そもそも長篠城の攻囲戦は1万5千対5百の戦力差でした。
これで守備方が援軍がくるまで持ちこたえたということは、
奥平貞昌の武勇を称えるよりは勝頼の方に問題が
あったのではないのでしょうか? 10/10
三河武士
この戦いは長篠城攻防の後半戦で武田軍団滅亡序曲でもあり、
更に歴史的(世界史)に見ても中世から近世への新たな戦術が
生まれた世界でも例のない合戦であると思います。
まず合戦の全容は、長篠城攻防戦で序盤、武田勢は
苦戦したが(苦戦といってもこの時代は普通の城包囲作戦)約1ヶ月あまりで
兵糧庫を落とし絶体絶命となった長篠城城主奥平貞昌が徳川家康に
援軍要請をするところからはじまる。援軍要請を受けた徳川家康は
自軍だけでは不利と見て前もって援軍要請をしていた織田信長と合流し
ここに武田軍団VS織田・徳川連合軍の全面対決がはじまりました。
ここで各陣営を分析します、先ず武田勢は信玄死後、武田勝頼が武田家の
指揮を采配するが御親類衆、譜代家臣団、新興家臣団と派閥があり、
これをまとめることが出来ないままであった、更に父信玄の獲った領地は
京に進むための領地拡大であり信玄の遺言である「死は3年間秘めよ」という
武田家の力を温存する内務重視策を取っていた。このために
広大な領地を守るという農兵分離が行われていない武田家はむしろ
徳川家康などの新興勢力から領地を奪われ更には奥平家などの
山家三方衆に対する謀反疑惑など問題が多かった。つまり武田家は
新時代の戦国大名家ではなく旧体制のまま大きくなりすぎた勢力であった、
そして嫡男ではない勝頼がこの大軍団をまとめるには時間が無さ過ぎたという
悲劇もあり奥平一族の裏切りという事件が武田家が衰退するきっかけと
なったことは事実である。
次に織田信長、畿内の平定が済み信長の領地は戦国第一であった、しかし
まだ少数の反抗勢力や毛利、上杉など大きな勢力があり信玄死後の武田家は
勝頼が父に劣るとはいえ邪魔な存在だったに違いないし武田を潰す機会を
伺っていたのは事実である。しかし戦国最強と言われた武田軍団を相手と
するには、野戦や山岳戦では不利であった、そこでまだ誰も
実行したことのない大量の鉄砲で騎馬軍団を殲滅する作戦が
信長の頭の中にあった筈だ。
しかし・・・どうすれば?大量の鉄砲が用意できる?
信長は筒井順慶などの大名に鉄砲を借り、更には堺で大量の鉄砲を
購入したのである。そして約3000挺の鉄砲を準備したのであった。
次に徳川家康、新興勢力の徳川勢は先の三方ヶ原の合戦で
手痛い敗北をしている、しかしその後、武田家との遠州争奪戦で
名を挙げ武田勢としても一目をおく存在となっていた、家康は
山家三方衆の奥平一族を裏切らせて信濃往還を脅かした、遠州はおろか
信濃の入り口に位置する長篠を獲られれば武田家としても危うい事態になる、
信濃は武田家の生命線にあたる。
家康とすれば三河、遠江を徳川の領地としたいし武田に勝てば
全国に名を挙げられる更に三方ヶ原の復讐ができる、だが一番の問題は
盟友信長であった、先の高天神城の攻防時援軍を依頼したが
結局送らなかったことがある
更に徳川の援軍としての織田勢が優位に戦えばそれは援軍ではなく徳川が
準主役に成り下がり信長の名は轟くが家康はただの同盟軍として
扱われる家康としては何とかして先陣を名乗らなければならなかった。
最後に奥平一族、先の三方ヶ原の合戦では武田勢に付いた奥平一族は今度は
徳川に付いた、戦国という時代に於いて極当たり前の少数勢力の
生き残り方であった、しかし一度裏切って負ければ一族皆殺しである、
そのため降伏できない長篠城の攻防であった。事実武田に人質を
送っていたが処刑されている。
この様な各勢力状況下で長篠の合戦は行われていく、先ずはじめに
学校の教科書やテレビ番組、映画等で解説される長篠の合戦は、
信長が三千挺の鉄砲を三段構えで武田の騎馬武者を一瞬で倒すという感じで
よく伝えられている、しかし事実は若干違うのである。実際三千挺の鉄砲を
前に勇敢に突撃する猪武者は武田軍団にいただろうか?武田軍団の強さは
その各隊の統率力の優秀さにあり陣形や作戦にこだわる軍団である。
では何故武田騎馬軍団は負けたのか?先ず第1には季節、
長篠の合戦時期は梅雨の季節であり雨が降っていた日が殆どであった、
そのために鉄砲が使用不可になるであろうと思う武将もいたはずである。
第2には鉄砲の能力、当時の鉄砲は3回に1回は不発であったという
文献もある位で、ましてや梅雨の時期なので十分勝算がある筈である。
第3には武田勢にも鉄砲隊があり鉄砲の有効射程距離弾のそうてん時間など
鉄砲の能力を知っていた。以上のことを考慮に入れれば三千挺の鉄砲に
突撃するか?第4は統率力である、武田軍団の半数が御親類衆であり
武田勝頼が御親類衆に人気が無かったことが事実としてある、実際、
織田徳川連合軍4万3千VS武田軍1万5千ではなく武田軍7千〜8千の兵で
戦ったことになる事実穴山信君、武田信豊、一条信龍、武田逍遙軒の各部隊は
勝頼の命令を聞かず戦線離脱をしている。そして第5は
信長の家臣佐久間信盛謀反疑惑。第6は譜代家臣団が死に場所を求めていた。
第5に関して信長は家臣裏切りのデマを流してまでこの戦いに挑む意気込みが
感じられ天下統一という信念がそうさせたのではないか、一方武田は
信長に勝ち武田の存続しか感じられない。第6に関しては
私の勝手な思い込みです、何故なら譜代の家臣団(山県昌景、馬場信春等々)は
武田信玄というカリスマと一体になって天下統一を目指し
何十年も戦ってきた、だが突然信玄の死・・・・この事実を
なかなか受け入れられなかったのでは、そして勝頼の代になってからは
常に自分に相応しい死に場所を探していたのではないかと思う
以上のことを総合すれば武田軍団の敗北が見えてきます。
では実際の戦いは、天正3年(1575年)5月21日(旧暦)未明、
武田軍の後方拠点鳶の巣山を酒井忠次が攻め込んで合戦がはじまる、
武田勢は背水の陣で戦うことになってしまった、設楽ヶ原では
織田徳川連合軍は馬防柵と空堀で守る完全な陣地戦隊形一方武田軍は、
騎馬武者を先頭に歩兵部隊が続く得意の突撃隊形、かくして法螺貝が鳴り
武田の陣太鼓(押し太鼓)が連打され戦闘がはじまった・・・・・
はじめは武田勢も様子うかがい程度の進軍であったが
いつしかいっせいに突撃を開始した、ついさっきまで降っていた雨も
上がりはじめた、突然鉄砲の雷鳴が轟きバタバタと
馬から武者が転がり落ちる、一瞬にして何百の戦死者が出た・・・
武田軍はいったん退却し弾よけの竹束を持って攻撃にうつった、
銃弾が飛ぶ最中ジリジリと馬防柵に迫り柵を引き倒しにかかったが、
つるべ撃ち・ねらい撃ち様々な方向から銃弾がくる、
武田軍の被害が大きくなったが武田の馬場勢が徳川の水野勢にとりつき
襲いかかった、水野勢は後退し追いつめられていたが馬場勢は深入りしすぎて
膠着状態になった、しかも内応の約束がある佐久間勢が全然動かない、
まるで何も約束がなかった様に、突如馬場勢は佐久間勢に襲いかかった、
佐久間勢はじりじり押され後退していった、
前半戦は武田軍の方が有利だった、そして武田勝頼は右翼の馬場隊に
後備えの穴山隊を合流させ左翼の山県隊に前備えの武田信豊隊を合体させ
鶴翼の陣形に変更しようとしたが、穴山信君に猛反対され
馬場隊は孤立していく・・・・ついに織田・徳川連合軍が
馬防柵から出てきて総攻撃を開始した、山県隊、馬場隊は
3倍の勢力と戦わなければならなくなった、そのころ武田の土屋昌続は
銃弾に倒れ武田の御親類衆が勝手に戦線離脱をはじめる、
真田勢は馬場勢と合流し懸命に戦っていたが多勢に無勢真田信綱・昌輝は
討ち死にし真田勢は全滅した。
その時点で残存する武田勢は勝頼本隊及び旗本、馬場隊、山県隊に少々の
信濃勢である、ここで勝頼本隊が狙われれば武田軍全滅ある、
そこで馬場隊、山県隊は敵を引き付け勝頼を逃がす作戦に出て勝頼本隊は
無事撤退出来た、だが馬場信春隊、山県昌景隊は全滅した・・・・・・
ここに8時間に及ぶ設楽ヶ原の合戦は終わった、武田軍戦死者9千余、
織田徳川連合軍戦死者6千余だった。
風姿花伝
この間テレビで「鉄砲による一斉射撃は無かった」という事で、
実は織田方は山に手を加え砦とし、武田方を誘い込み各個撃破するという
「ゲリラ戦法」を使っていたという話が出ていましたが、
その辺はどうなのでしょうか。
その説を話されていたのが確か小和田教授で、
人為的に手を加えた痕跡があるとの事でしたが・・・。
天下御免丸
鉄砲は3000丁?
「三千丁の三段撃ち」は江戸時代初期の小瀬甫庵が
「信長記」に書いた物が始まりと言われています。
信長に仕えた太田牛一の「信長公記」には
「鉄砲千丁ばかり・・・」の記述があり、
行間に「三」の字が加えられています。
実際には概ね1000丁ほどであったと思います。
但し、鳶の巣山砦の攻略に500丁を繰り出した話もありますから、
動員時には1500丁近かったかも知れません。
(中公新書から「信長公記」が出ています)
三段撃ちは?
現在の説は否定的のようです。射撃統制の関係から、
「弾込め」「射撃用意(火縄等)」「射撃」の3人が繰り替わるには
1組に1.5〜2メートルの幅が必要です。
号令・太鼓・銅鑼などを用いても戦場の怒号と銃声の中では困難でしょう。
また、早合を使うことにより、有効射程は落ちますが
1分間に4〜5発の射撃速度は得られたようです。
ちなみに、信長軍の鉄砲隊は本願寺との戦いなどで連度は高く、
また武士の中にも扱う者が多かったようです。
臨時雇いの「雑兵足軽」とは言えない精鋭だったようです。
(合戦屏風などでも雑兵とは言えない鎧武者が鉄砲を撃っています)
雨は?
前日は雨模様だった様子ですが、多少の雨なら
「雨火縄」なども開発されており射撃は可能だった様子です。
ただ、本格的な雨では鉄砲の利点を生かせないため
信長は天候の回復を待って出陣した感じもします。
馬防柵は陣地?
設楽ヶ原の南には豊川が東西に流れ、
この豊川に北から連吾川が流れ込みます。
南に行くほど川岸が切り立つため、渡河できる範囲は
織田・徳川軍が陣を敷いた南北に広がる丘陵地帯前面であり、
それより北は山地になります。
この織田・徳川の陣は、丘の前面を削り幾つかの段を設け、
堀を掘り、柵を設けていたと言われています。
(歴史群像6号他に記事があります)
武田騎馬軍団は?
甲斐・信濃は馬の山地でしたが、日本馬は小型の馬であり
大河ドラマの合戦シーンの様に騎馬の突進による衝撃力で
陣を突破する戦法には向きません。長柄の槍ふすまで防がれてしまいます。
(写真で見るとポニーみたいな馬です。
最も当時の日本人は150〜160センチですが)武田軍の強みは、
騎馬主体による移動速度が速いことと
武士が信玄以来の歴戦の戦士であった事だと思います。
しかし、騎馬・徒歩の混成部隊の突撃では
100メートル前進する間に4.5回の射撃を受けますし、
柵に取り付いて破る間にも撃たれます。
部隊の単位は多くても数百名ですし、一度に複数の部隊が前進するのではなく
数次に分かれて別々に織田・徳川の陣に攻撃をかけていますので
各個撃破されてしまったようです。
戦場では、勢いの有る方か数の多い方が有利ですから、
寄せる敵を高地から撃ち下ろし、気勢を殺いだ上で
多勢で取り囲む戦いが繰り広げられたのではないでしょうか。
武田軍の退却もバラバラであったため
織田・徳川軍の追撃で損害が増加したようですね。
藤原秀衡
というより一万五千全てが騎馬だったわけは有りません。
しかも信長達は四万五千です。信長は必勝の気持ちだったのでしょう。
だって数で勝ってるから。そして新兵器鉄砲の威力を
確かめてみたいという気持ちも有ったのでしょう。
武田勝頼
まづ、拙者武田勝頼を愚将、凡将の代表のようにみる人が
大半のようであるが、たわけ者と一喝してやりたい。
織田信長が本能寺で横死したから、滅亡から免れた、
能力0なんだが運が良いだけの上杉景勝と自分で言うのもなんだが
才能は父、信玄に勝るとも劣らない拙者、勝頼をどちらが上か、
よく考えてみれば良い。尤も勝てば官軍なんていう
無茶苦茶な国だから、しょうがないか。ちょっと脱線してしまいました。
あの戦の時、拙者は敵兵力が我が軍と同程度か少ないくらいだと
思っておった。何故なら我が武田は敵兵力の三分の一程度の軍勢で
勝ったことなど一度もなかったからだ。
あの日の拙者の作戦計画はこうじゃ、丸山に拠る佐久間信盛は
こちら側に寝返る事になっておった。鳶ヶ巣山に敵の別働隊が
向かっておるのも分かってたんじゃ。佐久間の軍勢がこっちについて、
且つ別働隊で設楽が原の敵兵力は我が軍の半分程度とみておった、
その敵軍を包囲殲滅する、これが作戦計画の概要じゃ。
くそ、それが戦になったら、佐久間は丸山をあっさりこちらに
明け渡したは良いが全然こちらに寝返らねえ、どうなってんだ、くそ。
それに敵兵力も三倍くらいいるんじゃねえか。鉄砲隊の陣地に
騎馬隊で突撃したかだと、そんな事出来る訳ねえだろう。
今のJRAの500Kもある馬じゃねえんだ、
あんなポニーみてえな馬で突撃なんかできるか、
降りて戦ったさ。攻めてみてびっくり。敵の陣地は
空堀と土塁で何段にもなってる縦深陣地、南蛮の宣教師の
入れ知恵か。織田には宣教師だけではなく、
ヨーロッパの軍事技術の専門家もきておったのだからのう。
こっちも撃たれ放題やられたんではないんじゃ。
竹束に鉄盾で防御して、その隙間から撃ち返したんじゃ。
兵力が違いすぎた。織田の陣地は山にあったからのう、
落とせんとみて平地にいた、徳川専門に攻撃したんじゃがのう、無念。
こっちの敗因は乱波が織田に買収されておった事じゃ。
金のある奴には、かなわんのう。あの情報で敵兵力の見積もりを
誤ったんじゃ。それと佐久間が寝返らんかった事じゃ。結局、
信長の謀略に負けたんじゃ、あの野郎。もう、これ以上は
止めよう、愚痴になるだけじゃ。それでは皆様、おさらば。
それにしても、御親類衆の野郎供、総大将の俺より先に逃げやがって、
あれで無茶苦茶負けた。あっ、また言っちゃた。本当に皆様、おさらば。
投稿本当にどうもありがとうございました。
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