第七回(関ヶ原の戦い)

井伊直政

やはり小早川秀秋の裏切りばかり目立ちますが
三成も問題があるとおもいます。
というのも戦い前日島津義弘が奇襲を言いましたが三成は断りました。
また親友大谷吉継が総大将になるのを注意しましたが聞きませんでした。
ほかにもいろいろあります。


真田大助

関ヶ原における東西両軍の戦術
西軍:関ヶ原西の笹尾山〜松尾山のラインを石田隊,小西隊,
宇喜多隊で塞ぐ。その時に丘陵に陣取り,前方に柵を置く。
こうすれば東軍が突撃してきても柵に阻まれ,
また丘陵を駆け上がらなければならないのでそこを鉄砲や矢で撃たれる。
 小早川秀秋は,元は他の部隊が陣取っていた松尾山を乗っ取った。
なかなか眺めがよいところ。戦況を判断しやすく,
攻められても十分防げると判断したのだろう。
 伊勢からやって来た毛利,長宗我部諸隊は東軍を
もう一方から攻めるのが目的。しかし、吉川広家につられて
攻めるに不便な南宮山に陣取ったり,吉川隊に道を塞がれたりして
戦闘に参加できなかった。

東軍:最前衛にすり減らしても惜しくない……というか
すり減らしたい豊臣系の武将を配置、豊臣文治派と喰いあってもらう。
二段目に譜代の武将を置く。彼らは後ろから一段目の部隊を
督戦する役割もしていた。最後にデ〜ンと家康本隊。
 後ろの方には既に少々傷がついた部隊を置いたが、彼らの役割は
南宮山の監視。さすがに吉川広家の言葉を全面的に
信用するわけにはいかなかったのだ。

 まずは豊臣系の武将の共食い。家康の思惑通り派手に戦いあった。
西軍は守,東軍は攻というのが基本的な戦況。一万五千の大軍を
有する宇喜多隊はさかんに福島隊に攻勢をかけていたが,
深く攻め入ろうとはしなかった。西軍諸隊は,陣地で守りを固め,
東軍が攻めつかれたところを狼煙を使って小早川隊、毛利隊も含め、
一斉に反撃に出る予定だった。
 東軍としては、実際に戦闘に参加している兵力は
自分たちの方が多いのだし,家康本隊も戦闘には参加していなかった。
このまま押し切ることも不可能ではなかっただろう。だが、
西軍が小早川秀秋を疑っているのと同じ理由で家康も
秀秋の内応を信用できなかった。精神状態の不安定な彼が
とち狂ってどんな行動をとるか、常に不安だったと伝えられる。

連絡をせいぜいが早馬に頼っていた当時の大規模戦闘では
そもそも綿密な戦術など望めなかった。部隊の配置が決まり、
簡単な狼煙火の合図を決めたら後は各部隊が勝手に
前方の敵と戦うしかなかった。 12/10


大久保彦左衛門

関ケ原(本戦)に参戦した代表的な武将・・・(東軍編)

東軍・・・

  徳川家康(総大将)、井伊直政(譜代)、本多忠勝(譜代)、
黒田長政(豊臣恩顧)、福島正則(豊臣恩顧)、藤堂高虎(外様)、
池田輝政(外様)、山内一豊(外様)、松平忠吉(親藩)、
細川忠興(外様)、加藤嘉明(豊臣恩顧)、浅野幸長(豊臣恩顧)、
織田有楽(外様)、田中吉政(外様)、筒井定次(外様)、
生駒一正(外様)、寺沢広高(外様)、金森長近(外様)、
京極高知(外様)、古田重勝(外様)・・・・・・・・・・・以上


大久保彦左衛門

関ケ原(本戦)に参戦した代表的な武将(西軍編)

西軍・・・

  石田三成(総大将 斬首)、宇喜多秀家(流罪)、
大谷吉継(戦場切腹)
小西行長(斬首)、島左近(討死?)、
島津義弘(所領安堵)、長宗我部盛親(所領没収)、長束正家(自害)、
島津豊久(討死)、蒲生郷舎(討死)、戸田重政(討死)、
安国寺恵瓊(斬首)、毛利秀元(所領減)、平塚為広(討死)、
小早川秀秋(裏切り)、脇坂安治(裏切り)、朽木元網(裏切り)、
小川祐忠(裏切り)、赤座吉家(裏切り)、稲葉正成(裏切り)、
平岡頼勝(裏切り)、松野重元(戦場離脱)

藤原秀衡殿からの質問

関ヶ原の時に島津 小早川が味方していたら形勢はどうなったんでしょう?
小早川が寝返ったとしても島津の兵は強いのでどうかと僕は思います。
知識が浅はかな私ですがどなたかこの疑問を解いてもらえないでしょうか。
でも実際にやらないとわからないので予想で結構です。

赤松円心

最近、関ヶ原の戦いについて興味深い話を聞いたので、
紹介したいと思います。通説では、迷っていた小早川秀秋は
徳川家康に陣に鉄砲を撃たれて、ようやく決心して
東軍に寝返ったといわれていますが、どうやらその通説は嘘らしいですね。
合戦が始まる以前に、秀秋は石田三成の命令を無視して
松尾山城(西美濃一の巨城、西軍の大将が入るための城だった、
当時の最高技術を用いて造られた城)に勝手に入場しているのです。
松尾山城に入った時点から、秀秋は東軍に寝返ろうと決心していたのですね。
それと、関ヶ原の戦いは、臨時的、一時的な戦いになると
武将たちは考えていたそうです。というのは、
南宮山の毛利秀元の陣城は明らかに南方(大垣城方面)を意識して
作られていたからで、さらに南宮山からは
関ヶ原を見ることはできないそうです。
きっと大垣城周辺で決着を着けるつもりだったんでしょうね。

島津 忠恒

関ヶ原の戦いにおいて西軍が負けたのは
毛利家が動かなかったからだと思います。関ヶ原の戦いで暗躍したのは
吉川広家であり、広家こそ元就の遺言である
「子孫たるもの、天下を望むべからず」を守ろうとした人物である。
輝元が西軍総大将、秀元、秀秋、安国寺恵瓊が西軍についたなか、
広家は毛利家の未来を憂慮し東軍と密約を交わしたのである。
もし関ヶ原で西軍が勝っていたなら毛利家は豊臣政権で
最大勢力となっていただろうが、輝元の力量では
その地位を保つことができなかったであろうと思う。
輝元は祖父元就に「情けなく候」と言われたほどであり、
広家がそこまで考えていたかは解らないけど、
勝っても負けても家を守ることが出来ないのではと
考えたんじゃないかと思います。そして、
広家は動かず秀元、恵瓊の軍勢を足止めし役後は
本家毛利家を守るため奔走したのである。
家康は輝元父子の処刑まで考えていたと言われるほどなので
防長2ヶ国を確保できたのは広家の働きによるところが大きいと思います。
しかし、もし大坂城の輝元が関ヶ原まで出陣し、
毛利家が総力をあげて東軍と戦っていたら
歴史は大きく変わっていたかもしれません。

斎藤道三

関ヶ原決戦前日の西軍主力部隊の関ヶ原転進について、
通説では徳川家康が大坂、佐和山攻めの知らせをわざと
西軍に知られるようにして、大垣城から西軍を誘き出し、
家康の得意な野戦になるようにしたといわれ、
そのため西軍が敗北したようになっていますが、
関ヶ原での決戦となれば布陣は圧倒的に西軍有利であり、
個人的にこの関ヶ原への転進が西軍の失策だとは思えません。
また、そのまま大垣城に籠っているのも、既にこの時から
東軍への内通の噂があった小早川秀秋が松尾山に布陣しており、
東軍が反転して関ヶ原に向かった場合、秀秋が寝返る可能性が高く、
もしそうなれば近くに布陣している大谷吉継隊は壊滅という事態に
なりかねないので、やはり関ヶ原への転進が最善の策だと思う

新免無二斎

関ヶ原の戦いで、何故東軍が勝ち、西軍が敗れたのか、
幾つもの理由が上げられるでしょう。
まず、総大将の差でしょう。徳川家康はまさに千軍万馬の名将であり、
海道一、いや海内一の弓取りというべき人であり
(当時、黒田如水、真田昌幸、細川幽斎等、指揮能力で家康と互角
もしくは凌駕すると思われるひとも存在するが、
総合力で比較すればやはり家康が最強ではないだろうか。)
その威望は天下一ではなかったか、さらに関東二百五十万石の大領土も
盟主として家康を仰ぐ者たちに安堵感を与えたのではないか。
西軍の事実上の総大将である石田三成は悲しいかな人望が無い、
野戦派武将達からみれば
三成は文官でしか無く「あんな奴に戦がわかるか」と思うだろうし、
豊臣政権の高級官僚として、
権力を振るってきた彼に対する世間の評価は
「虎の威を借るドブ狐」でしかなかっただろう。
特に彼を嫌悪する尾張は武将達は三成の挙兵も
「あいつは私利私欲のために挙兵した」としか
思わないのではないか。おそらく彼は豊家の御為と思い
挙兵したのだと思うのだが・・・。
つまり家康には人望があり三成にはこれがなかった。
次に両軍の質の差というものがあるでしょう。
東軍には徳川軍という大軍団が中核として圧倒的な存在感を誇っています。
東軍の他の大名は十万石から二十五万石位の大名がほとんどで
徳川家の圧倒的な大軍勢に安堵し一丸となって戦う事が出来たでしょう。
西軍は大大名が多すぎます、関ヶ原のに布陣していた大名のうち
本隊の石田隊以上の軍勢を率いていた大名はいくつもあります。
石田隊は僅か六千、なめられてもしかたありません。
つまり東軍は統制がとれ、西軍は寄り合い所帯でしかなかったということです。
次に戦略を比較してみましょう、これは戦術よりも大事です。
家康は関ヶ原前に何百通も諸大名への書状を書き、取り込み工作を行いました。
この結果吉川・小早川等西軍大名に裏切りが続出しました。
北政所を味方にできたのも大きい、彼女の影響下にある大名たちは
多かれ少なかれ家康の勝利に貢献しています。
東軍は兵力をまとめて運用しています。秀忠の遅参は予想外の失態でしたが、
兵力分散の愚は犯していません。
これに対して西軍は初めから兵力を分散しています、
関ヶ原で慌てて掻き集めましたが、
なお大津城攻略に一万以上、大阪城に三万以上の大軍が参加していませんし
鍋島勝茂などは決戦前に帰ってしまっています。
(個人的には大津攻めの中に立花宗茂・毛利勝永が加わっていたことが
戦力的に惜しいと思う。)
私の考えでは西軍の陣形は計算され意図的に作られたものでは無く
行き当たりばったり的に出来てしまったものであり、
たとえ裏切りが無かったと仮定しても、
各方面に分散していた兵力を寄せ集めた為、
包囲陣を敷いていても打ち合わせ不足で、有機的な運用は
出来なかったとおもいます。
東軍は包囲されているのですが、兵力は集中しており、鶴翼のもっとも重要な点、
すなわち石田本隊を撃破すれば中央突破戦法が完成します。
よく、すでに小早川、吉川、等の内応があったから
家康はあの様な陣が引けたのだと言われますが
私は家康はそこまで甘い人間では無いと思います、
彼等の内応はせいぜい保険程度にしか思って居ないでしょう。
ところでこの陣形、三方が原の戦いに似ているとおもいませんか?、
薄い徳川の鶴翼を軽々と突き破る武田の魚鱗陣、
苦い敗戦の記憶が家康の脳裏に去来したかもしれません。
そして何と言っても時代の流れでしょう。
豊臣家は二度にわたる朝鮮出兵により力を使い果たし、
誰もが太閤の世の終焉を望んでいた、
すなわち豊臣政権の命数は尽きていたのです。
家康はその時流に巧く乗ったのです、勿論家康の力もありましたが、
それだけではない、歴史の大きな力という物があった筈です。
三成はその歴史の流れに逆らおうとしたのです、
沈む夕日を呼び返そうとしても出来るはずありません。
たとえ、関ヶ原で家康が敗れたとしても彼は関東で再び兵を挙げるでしょう。
家康が滅びたとしても斜陽の豊臣政権を立て直すのは不可能で
ふたたび戦国乱世に突入するか、
伊達政宗か黒田如水あたりが豊臣政権を覆してしまうのではないかとおもいます。
以上、未熟ながらも関ヶ原私論でした。

斉藤道三

関ケ原の合戦は「天下分け目の戦い」と言われるほどの戦いです。
豊家恩顧の武将衆が加わる徳川家康の東軍と
近江衆と呼ばれる奉行衆中心の西軍との戦いです。
西軍は名目上は毛利輝元を総大将としていたようですが、
石田三成が実際の指揮を執っていたようです。余談ですが、
関ケ原は交通の要地で美濃・近江・尾張をつなぐ重要地です。
まあそれも合戦がココで行なわれた理由でも合ったのかもしれません。
ただ、家康率いる東軍は徳川子飼いの家来衆は
信州上田の真田昌幸に足止めを食らっていた秀忠軍に参加していた。
名のに何故合戦を始めたのかというと、井伊直政が説得したようだった。
彼は家康の4男・忠吉を自軍に加えておりこの戦いで
彼を家督相続争いで優位に立たせることによって
後の自分の地位と家の未来をかけて家康を説得したらしい。
口説き文句は「小早川、毛利(ともに寝返り、中立を内約)心変わりもありうる」
といったらしい。まあ、今日はこの辺のしておいて戦の中身はまた後日...では。





投稿本当にありがとうございました。
戻る