第六回(厳島の戦い)

今井宗薫

この厳島合戦のきっかけは陶晴賢が主君の大内義隆に謀反し、
これをころしたところにあると思う。それにより、吉見政頼が
反晴賢の旗をあげ毛利が吉見を助けるか、晴賢につくかになり、
悩んでいると見せかけた間に晴賢を倒す策略を練っていたからだ。
私は厳島合戦はそこに至るまでの過程がすばらしいと思う。
晴賢と絶交するときめ、挙兵し、たった一日で瀬戸内海まで
城を落とし、その次には晴賢の重臣江良房栄などを内応し
房栄を晴賢に殺させている。
そして、厳島に晴賢を巧みにおびき寄せたからだ。
合戦当日も見事だったと思う。まんまと晴賢の兵二万余を
厳島におびき寄せ、宮尾城に釘ずけにした。
その間に主力二千を元春を先鋒としこれを晴賢にばれぬよう
厳島へ移動させ、隆景率いる千五百は大友の援軍と
見せかけ晴賢の後ろにつく。事前に連絡したあった伊予水軍も
援軍にきた。これで晴賢の挟撃体制がととのった。
あとは本陣二千の突撃をきっかけに宮尾城、隆景の兵が呼応し、
晴賢が島から出ぬよう伊予水軍が船を破壊するだけである。
しかも厳島の地形は狭く、晴賢の兵が密集しても
混乱するだけである。これはお見事というほかない。
この奇襲攻撃は成功し、敵兵三千余を生け捕り、
四千百余を討ち取った。

ゆーとぴあイアウエオ企画

今井氏には申し訳ないのですが言わせていただきます。
決してこの戦いのきっかけは陶隆房(晴賢)が
主君を討ち取ったのが原因ではありません。
よく毛利元就が陶隆房(晴賢)を討ち取って勧善懲悪をやった英雄だと
言われがちですが・・・・決してそうではありません。
なぜなら元就は1550年頃から陶隆房(晴賢)と密書で連絡を取っており
この間に謀反後の領地の取り決めまでしていました。
あと元就が隆房(晴賢)を厳島をおびき寄せたというのですが・・・。
それではあまりにも陶隆房(晴賢)がまぬけになってしまいます。
というのは厳島は経済的に軍事的に見てものすごい拠点です。
なぜならば堺への通り道になっていることと
潮の流れの影響でここは当時ものすごく貿易が盛んだったそうです。
よってこの拠点を奪い返しに行くのは当然のことだと思います。
次になぜ村上水軍とかが陶隆房(晴賢)元就に味方したかですが・・・。
これは決して元就の意気込みに惚れたからではありません。
他にも色々な理由があるのですが・・
陶隆房(晴賢)が海賊の特権である駄別銭(通行料みたいなもの)を廃止して
海賊の恨みを買った点が多いと思います。
でも最終的には元就の知謀の勝利なんだと思います。
補足ですがもし海軍が味方に付かなかったら
この戦い自体存在しなかったと思います。
まさか台風の日に水軍の助けなく島へわたろうという
無謀な行為はしないと思います。
つまり勝算があったからこそこの戦いをすることができたのです。





投稿本当にどうもありがとうございました。
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