第五回(桶狭間の戦い)
今川国氏
桶狭間の戦い
桶狭間の戦いはご存じ
奇襲の殿堂入りした信長ですね(解らないだろうな)
桶狭間は本当に!すごいっすね
やはり信長、うつけのふりをして
合戦の下調べを20年もかけて調べたのですね
すごい!
細い道を全て覚えてる
ふむうう・・
斉藤道三でもできんの・・
むむむむむうむ
本隊だけを狙うとはね・・
やはり信長でしょう
今井宗薫
この戦いで、織田軍と今川軍の兵力差は織田軍四千〜六千、
今川軍二万〜三万くらいであったと思われる。兵力差は五倍。
しかし軍の配置で義元は兵を分散させていた。よって
本隊だけなら二千対五千で勝つことも可能となっていた。
義元は1560年5月12日に本隊と一緒に駿河を出発し、
駿・遠・三と尾張の一部からきた二万五千の大軍を率いた。
信長は清洲城において丸根、鷲津砦攻撃の情報をうけた。
これで義元の軍は丸根、鷲津の両砦に軍をさき、本隊の兵は
減少すると信長は予想したらしい。しかも、戦場となるであろうと
思われる場所は信長が「大うつけ」と言われていたとき駆け回った場所であり
地の利は信長にあった。まず、砦を落とし油断していた義元は森と
沼田に囲まれた桶狭間で全軍に休憩をとらせた。警備の兵はいたが、
視界が悪いため、十分に働くことはできなかった。信長の方では
有名な敦盛の舞を舞い、出陣した。初めは付きそうのはわずかしかいなく、
大将が軍を引っ張っていった。熱田神宮についた
午前八時ころには二百騎になっていた。戦勝祈願している間におくれて来た軍が
到着し兵力は一千に膨れた。午前九時、熱田神宮を出発し丸根、
鷲津砦陥落の知らせを受け信長は神仏の力を利用して兵士たちに
決死の覚悟をつけさせた。一丸となった信長軍は鳴海に警戒軍三百をさき
善照寺などの砦の兵士を集め兵の点検をしたところ、ようやく三千余の兵が
集まり義元に対抗できるようになった。そうしている時、信長は鳴海に
送った兵が壊滅した知らせを受けた。怒った信長はそちらに軍を
進めようとしたが、梁田政綱の間者から義元は桶狭間にいるという情報を得た。
この情報を得た信長は1千を中島に置き、鳴海方面からくる
今川勢のおさえとし、二千の兵で今川本隊へ潜伏しながら進軍した。
進軍中、信長は義元本隊と戦え、勝利できることが可能となったことを
兵に教えて、士気を高めた。桶狭間に着こうとした時、雨が降り義元本隊は
木に隠れていった。この様子を見ていた信長は雨がやむと同時に総攻撃を
しかけた。義元本隊は混乱状態に陥り、義元の旗本が織田軍に見つかった。
織田軍はそこをめがけて全員が突撃。そして義元の首はとられて織田軍の
圧倒的な勝利に終わった。
井伊直政
うつけ信長が天才になったときです。
そもそも慎重にあせらずに情報を利用したのが勝ちになったのです。
うつけで油断させ、そして奇襲させる。
すごいしかいいようがありません
井伊直政
今川義元は足利一門で、上洛する目的で駿府城を出た。
「織田はすぐ潰れる」と油断したことがのち命を落とす。
まず、今川軍は浜松、吉田に寄り織田領である沓掛城間で近づいた。
織田家は軍議を開いている最中に部屋に戻った。
織田軍は丹下、中島、善照寺、丸根などの砦を築いた。
信長は敦盛を舞った後、出陣し、熱田神宮に参拝した。
今川軍は松平元康(徳川家康)の活躍で大高城を落とした。
そのころ、織田軍は佐久間盛重らが討ち死になったが
士気には関係なく今川本隊を目指した。
今川本陣の手前で雨が降り、奇襲しやすくなった。
今川軍は大高城陥落で酒宴中だった。
そこに、織田軍が来た。
今川軍は準備ができなかった。
義元に服部小平太が1番槍をつけた。
だが失敗終わったが、毛利新助が首級をあげた。
この戦いで今川軍は敗走し、松平元康は居城であった岡崎城に戻った。
そのあと、元康は信長と組み天下を目指した。
この戦いは天下を変えた戦いである。
参加武将
織田軍
織田信長
佐久間盛重
織田信平
佐久間信盛
林通勝
柴田勝家
森可成
金森長近
今川軍
今川義元
松平元康(徳川家康)
朝比奈泰能
岡部元信
鵜殿長照
平岩親吉
瀬名氏俊
飯尾乗連
吉良篤次郎
実は、田楽狭間の合戦で信長は奇襲戦法なんて、
これっぽちも使っていなかった!
信長公記には、その事がちゃんと書いてある。
そうなると疑問が2つ浮かんでくる。
1つ目は、じゃあ二千弱の織田軍は二万強の今川軍を
どうやって撃退したのか。2つ目の疑問は、ではなぜ、
奇襲戦と呼ばれるようになったのか。1つ目の回答は、
休息中の今川軍は進撃中の織田軍を発見します。
あわてて戦闘体勢をとりますが、その時の時刻は正午過ぎ。
当時、戦の開始時刻は夜明け頃が一般だったので、なんだ、
今は真っ昼間じゃねぇか。と、油断をして具足を脱ぐと、
なんと織田軍が突進攻撃。常識破りの攻撃に今川軍は大混乱。
ついには、総大将今川義元の首級を取られる有様に。
こうした事によって織田軍は今川軍に勝つことができたのです。
ついでに今川軍は上洛をめざしていたのではなく、
単に尾張に侵攻しただけでした。2つ目の回答は、
江戸時代に信長記という小説が江戸で人気になり、
いつの間にか信長記は本物の史実になっていました。
その信長記には、信長は奇襲戦法によって今川軍を撃破したと
書いてあったのです。信長記を書いた人は実際に桶狭間の合戦を
見物していませんでした。つまり、なんにも知らない人が
信長記という書物に信長の生涯を、嘘と真実を
ごっちゃ混ぜにして書いた訳です。
そうしてその信長記が後々に史実となって
今でも教科書に載っているということです。
投稿本当にどうもありがとうございました。
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