第四回(川中島の戦い)

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前田利家

川中島の戦いこれは上杉謙信 武田信玄の戦いです。
武田家軍師の山本勘助は相手をはさみうちにして倒そう、と言う戦法でした。
しかし上杉謙信はとっくに見抜いていました。
この戦いで信繁、勘助などの武将を失いました。
ほとんどは同点といってますが。
私は謙信の勝ちだと思います。

上杉景勝

歴史で最も有名と思われる合戦。
龍虎と讃えられた上杉謙信と武田信玄の間で5度戦われた信州争奪戦。
しかし、合戦での勝敗は1度も付けられなかった。
最大の激戦だった第4次川中島合戦ですら、両者痛み分け…。
すると2人の戦いは勝負なしなのか?
そんな事はないだろう。戦術的にはほぼ互角であったが、
戦略的には信玄の圧勝だ。謙信は戦略目標の信濃奪回を
1度も果たせなかった。逆に信玄は信濃に強固な領国を作っている。
もともとこの2人はそれほど利害が一致してないし、無理に争う必要は
なかった。
どちらかといえば……うーん、謙信の方が一方的に
信玄に熱(見込み?)をあげていた。2人が手を組んでいたら、
戦国時代はあっという間に終わってたさ…。
所詮、見果てぬ夢か…。


今井宗薫

今回は最も激しい戦いだった。と言われている4回目の戦について
書きます(謙信の視点で書きます)。これは謙信が上杉憲政の
懇願により関東に出兵。十一万余の大軍で一年間、小田原城を
包囲していたりしている間に信玄が上杉の領地の近くまで迫ってきたので
謙信が春日山城に帰還してすぐ兵八千で妻女山を占領、海津城を威圧した。
他にも妻女山には兵が来てあわせて一万三千余となった。しかし
妻女山進出はそうとう危険であったらしい。海津城城主高坂昌信の狼煙で
報告をうけた信玄は甲府を一万七千の兵で出発し途中で
信濃の兵もあわさった。信玄が茶臼山に行く途中、
謙信は行軍を続けている信玄を横から襲うこともできたが、
海津城に襲われる危険があったのでやめた。これで謙信は
茶臼山と海津城に挟まれ、信玄は妻女山と善光寺に挟まれた。
逃げたら痛手をうけるので我慢比べになった。しかし信玄は
謙信さえいなくなれば川中島は手に入れる自信があった。
謙信がいなくなって欲しいという動きがほしく、信玄が先に動いた。
妻女山を横切り海津城に入り二万の兵になった。ここでも
謙信は動かなかった。謙信は撤退の機会を待っていたからだ。
出兵の目的は村上や小笠原の救援だが彼等が戦わなかったからだろう。
信玄は謙信に退路を作ったが、動かない謙信を不信がった。
補給路の長い信玄は上杉軍以上に苦しんだ。とうとう待ちきれず、
信玄は妻女山を山本勘助のキツツキの戦法で妻女山を攻撃することにした。
この計画は高坂昌信が一万二千の兵で妻女山を攻撃。
勝っても負けても上杉軍は妻女山をから川中島を北上して
八幡原に現れるだろうからそこを信玄率いる八千の兵が横から攻めて
大打撃を与えるという内容だった。信玄はキツツキ戦法を行う前日、
明日の行動のためいつもよりたくさん飯をつくった。
戦機の動きを待っていた謙信はこの煙の多さを見逃さなかった。
明日武田軍は動くとよみ、兵士100を残し旗をたくさん立て、
かがり火をたくさん焚いて主力がまだいるように見せかけた。
そして直江1千を丹波島に先行させ、甘糟1千に迂回する
高坂の備えとした。そして丹波島へいき車懸の陣をしき
霧が晴れると信玄本隊がいたので突撃した。信玄本隊では信繁、
諸角昌清、山本勘助などが戦死、信玄も負傷しピンチだった。
しかしここで高坂昌信の兵が甘糟を蹴散らし上杉軍の背後にまわった。
そして上杉軍は敗走善光寺で残兵4000を率いて春日山へ帰った。
信玄は海津城へ行きそこから甲府へ帰った。
この戦いで上杉軍の死者は三千五百、武田軍は四千五百であった。
しかし土地確保をしたのは信玄であり勝敗はつけにくいだろう。


武田典厩信繁

  川中島の一騎討ちは、影武者同士の戦いだったらしい。
  武田信玄の影武者は武田信廉で
  上杉謙信の影武者は荒川伊豆守長安です
  上杉家の戦記「北越軍記」には一騎討ちを演じたのは、
  謙信ではなくて、謙信の影武者であった荒川伊豆守長安
  であったと記されている。
  武田信廉は信玄の影武者で有名である。




投稿本当にどうもありがとうございました。
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