第二回小牧・長久手の戦い

羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が戦った合戦。
賤ヶ岳の戦いで勝利し、最大の好敵手、柴田勝家を倒した秀吉にとって
残る難関は織田信長の次男・信雄と徳川家康だけでした。
秀吉は織田家の家老3人と内応の約束を交わしました。
しかし、これを知った信雄は家老3人を成敗し、秀吉と断交、前から同じく
秀吉を嫌っていた五ヶ国の太守・家康に協力を要請したのです。
家康は信雄の救援を目的に戦ったわけですが、でももし秀吉に
勝っていたら信雄と同じく断交し、後にきっと信雄を倒していたでしょう。
それが狸と呼ばれた家康のすごさなのかもしれません。必要な時は結び、
用が無くなったら手を切る・・・
というわけで小牧・長久手の戦いがはじまろうとしていたのです。
1584年3月13日、秀吉と信雄の領地の狭間にいた
大垣城主・池田恒興は、秀吉側につくことを決意、信雄に犬山城を攻略した。
恒興を頼みにしていた信雄・家康は作戦を変更し、小牧山へ出陣する。
秀吉も家康の家康の出陣を聞いて急行し、小牧山の近くに陣を敷いた。
4月4日、恒興は秀吉に三河攻めを進言する。秀吉は迷ったが、
三好秀次(後の豊臣秀次)も作戦を支持したため、これを承諾した。
二万の池田軍が密かに三河に向かう。家康はこの情報を掴むと、
すぐさま追撃軍を編成、自らも一隊の率いて出撃した。徳川軍は
長久手で池田軍を急襲、池田軍は総崩れとなり、恒興も戦死した。
家康はすぐに小牧山に戻り、恒興救援の為に進軍していた秀吉軍も陣に戻った。
この後両軍のにらみ合いは半年続いたが、10月、
両軍の撤退により合戦は事実上終結した。
間もなく、秀吉は信雄との単独講和に成功、家康は名目を失う、
二人の和睦は、この戦いの2年後のことである。



独眼龍 政宗(一つ目)

天正12年(1584年)の小牧・長久手の合戦は、
豊臣秀吉と徳川家康との決戦である。織田信長の後継を狙う秀吉に対し、
不安をもった信長の子織田信雄は徳川家康と連合して豊臣秀吉をたたこうと
した。10万の大軍をひきいて犬山城に入城した秀吉に連合軍は清洲から
小牧山に布陣し相対した。戦場は名古屋市の北東一帯にあり、秀吉が
本陣を置いた楽田には「楽田城跡」の碑が建ち、家康が陣をひいた小牧山には
小牧歴史館が建つ。長久手古戦場跡(愛知郡長久手町武蔵塚周辺)は
現在公園として郷土資料館が建っている。この戦いは家康が秀吉に対し
初めて優位にたった合戦で、家康側の勝因は丹羽氏重の岩崎城死守にあった。
戦いは一進一退の状態となり8ケ月後に講和がなった。



羽柴筑前守利家

この合戦は諸説ありますが、小牧山周辺で徳川軍2万、羽柴軍7万くらい
でしょうか。
それぞれ小牧山城、楽田城に大規模な野戦陣地を築いたためお互い
手を出せない状況にありました。まあ長篠の怖さは皆知っていましたから。
こうして膠着状態が続いたわけです。
秀吉には、前哨戦で森長可(池田恒興もだが)が能力もないのに
功をあせり勝手に小牧山奪取を計り大敗したということが大きな災いと
なりました。
まあ、秀吉にはこれを止める掌握力や有能な軍監がいなかったので
しょうがないかもしれませんが。
結果として汚名をはらさんとする森、池田の押しに負けて作戦の中でも
非常に難しい中入り(敵の背後につくこと)をしたわけです。
岡崎城を狙ったわけですが、隠密作戦なのに秀次を総大将にして総勢2万。
主な武将は森、池田の他に堀秀政で、まともな武将はこの人だけでしょう。
案の定簡単に発見されて、さらにそのことに気づかずのうのうと長久手で
兵糧をとっていたときに家康が直接率いる1万の兵に急襲されたわけです。
堀がいなければ全滅していたかもしれません。
さらに家康がでていることを知った秀吉が大軍を率いて追撃し、
家康は長久手近くの岩崎城にこもりましたが、
小牧山守備役の本多忠勝の天才的な判断で家康は包囲網を抜け
小牧山に帰還しました。
合戦にもしもはありませんが、このとき秀吉が半分の兵でも蒲生氏郷にでも
あずけて小牧山攻略にかかれば落ちてたかもしれません。
ただ、家康が生き延びていればその後の歴史は変わらないともいえますが。
だから、なんとしても秀吉は家康を討ち取りたかったのでしょう。
家康と秀吉の家臣の質の差でしょうね。私は家康はあまり好きではありません
(その後の日本人の独創性の無さの要因を作ったと思うから)が本多忠勝は
戦術において戦国一だと思います。上杉謙信より上じゃないかなあ。



独眼龍 政宗(二つ目)

小牧長久手の合戦(天正十年・同十一年)
家康の生涯に戦われた6大合戦の4回目の戦
これより先の三方原・姉川・長篠のように織田との連合または
助けられての戦争とは違って信長の息子信雄の依頼によるもので
信雄と連合する形で実は自分が中軸となり自己の意思で自由に戦ったのである。
規模は雄大であるが長久手合戦以外戦闘らしいものはない。
軍事的に見れば決勝的勝敗はない。寧ろ外交戦・心理戦のほうが濃い
これが特色である。
この戦は伊勢長島の信雄が三月六日に老臣たる尾張星崎城城主岡田重孝・
安賀城城主浅井長時・伊勢松ヶ崎城城主津川雄春を斬って羽柴秀吉と断交した
時から開始された。これは秀吉がこの三人を招いての歓待懇談ののち、
雄利が三老臣の叛心ある旨を密告したためと言われている。
この先に信雄は近江安土城に在り、幼少の三法師丸の名代として事を執り、
秀吉に一味していたが、戦後同胞たる織田信孝自殺ののち、
次第に秀吉の圧迫を感じ、兼々懇親を結んでいる公の援助を期待し、
三老臣誅罰をして秀吉に挑んだ。公は三月七日直ちに浜松を発した。
七日信雄が三家老を誅した報告が浜松に達すると同じに公は出発したらしく、
松平家忠はその晩の八時ごろ、阻止だより、公が岡崎に向かったという急報に
接し、八日岡崎より下せる公の命令に従って矢作に到った。
三河の諸軍は矢作に集結したらしい。九日阿野着陣。十日家忠は酒井忠次と
共に鳴海に着陣。十二日愛知郡呼続の内なる山崎に着陣。伊賀大和の諸勢が
味方にはせ参じたという。
戦は九日北伊勢で始まり、十日信雄の武将佐久間正勝の篭れる峯城は、
大軍に攻められ陥落、十三日尾張の犬山城が秀吉に属せる
大垣城城主池田信輝に攻め落とされるに及び、ただちにして北尾張も
戦場となる。十四日公は清須で軍議を開き、榊原康政の定義により小牧城を
本城と定め、直だちに山上に城塁を修築した。これによりこの戦争を
小牧役ということになった。
このようにして公と秀吉は戦争に突入したのであったが、これより先
両雄は早くより心理戦を開始する。秀吉は信雄を圧迫する時、
その背後に在る公を計算に入れていたし、信雄に接する公はまた、
その背後に在る秀吉を計算にいれていたのである。このころ、
安芸の毛利輝元・四国の長宗我部元親・紀伊の根来一揆同雑賀一揆・
越前の佐々成政等は、秀吉に反感を有しており、その他の諸雄も
必ずしも秀吉に純従であるとは限らない。公はこの形勢を利用し、
元親・成政・根来・雑賀の諸勢力を連結して、秀吉を包囲しようとした。
これに対して秀吉は淡路の千石秀久を元親に備前の宇喜多秀家をして
毛利輝元と公の間を妨げ、成政に対しては前田利家・惟住長秀をして
正面を押さえ、上杉景勝をして背後を牽制せしめ、蜂須賀家政・黒田孝高・
泉州岸和田の中村一氏をして根来・雑賀の一揆に備えしめた。
この戦には三段の推移がある。戦争は北伊勢から始まるがこれは
序盤にとどまり、池田勝入の犬山攻陥、公の小牧塁修築によって、
尾張北部戦をへて本戦に入り、転じて尾張西部戦となり、
更に転じて尾張西南部戦となり、再び北伊勢に移り、外交戦となり
終戦に達した。この間を通じて公と信雄はつねに守勢に立ち、
秀吉は常に攻勢に立った。
守勢に立った公と信雄は静須を中心に北は小牧山、
南は長島に至る一線を確保公は遥々浜松より出張して主として小牧山に拠り、
信雄は居城長島を拠点としていた。これに対して攻勢に立った秀吉は、
また遥々大阪より出張して、第一期戦には尾張北部に侵入したが成功しず、
第二期戦には尾張西部戦場に臨んだがまた成功しず、第三期戦なる
尾張南部戦場には姿を表すこと無くして終った。秀吉は終わりの国の周辺を
駆け回っただけであり、ついにその内部に進入することが
出来なかったのである
第一期尾張北部戦は、三月中旬より四月末に及ぶ。
これは両軍主力の対戦であり、この戦役の主要部をなしている。
それは三月十七日、公の先鋒酒井忠次・奥平信昌等が、
犬山の南方一里弱の所にある羽黒に陣せる北軍の将、森長可・池田元助を
破った羽黒合戦に始まる。開戦は徳川の矛先のよい勝利であった。
三月廿九日秀吉は、小牧山より二十余町を隔てる楽田に本営を進めて
公と対峙した。この時信雄も小牧山に来ていた。
羽黒合戦で不覚を取った森長可は、池田信輝の女婿である。
勝入は公を小牧山に押さえておいて、長駆して三河に攻め入る策を勧めた。
秀吉はこれを採用し、自分は楽田の古城に拠って小牧山を押さえることとし、
信輝は子元助・女婿森長可・堀秀政・長谷川秀一・三好信吉と共に南下して
三河に向かった。大軍が三河に入れば公は小牧山を撤退するであろうし、
残された信雄は急速に無力化するであろうという推測から出た行動である。
信輝は岩崎城を陥れた。しかし第五陣三好信吉が公の武将大須賀康高・
榊原康政等に襲撃されて長久手方面に敗走したため、信輝の本隊は北転し
て長久手に到ったところ、公の本隊と衝突して大敗し、信輝・元助の父子
及び森長可は戦死し、余衆はさんざんに壊走した。秀吉軍が三河に
侵入するであろうという情報は、逸早く公の手に入っていたという。
信輝部隊が南下するのを知って、公が小牧山を出発したのは八日の
夜半であった。そして矢田川北岸の小幡城に入り、九日午前八時前後、
大須賀康高・榊原康政等は小幡城を出て信吉を長久手方面に走らせた。
公は本多広孝をして小幡城を守らせ、長久手に進出して大勝を博したが
追撃を許さず、急いで引き返してまた小幡城に入った。
秀吉の楽田の陣営に長久手の戦報の達したのは正午前後であったという。
秀吉はただちに出馬して竜泉寺に至ったとき、合戦はすでに終り、
公は小幡城に引き上げたことを知った。公はその晩出発して
十日夕刻小牧山の本営に帰り、秀吉はその晩は竜泉寺に泊まり楽田の本営に
帰った。
秀吉はついに小牧山に対して攻撃をしなかった。
そして局面は第二期尾張西部戦場に
移る。秀吉は五月一日小牧山に対する陣を徹して美濃に引いた。
その退陣振りが見事なのを望見して、公はこれを追撃しなかった。
四月九日の長久手合戦より四十日程の間、公は小牧山に在りて、
たびたびの兆戦に対し、陣を堅くして取り合わず、今また
敵の退却の追撃しないことにつき、当代記には、「最も名誉の仕置也」と
賞讃してある。
秀吉はそれより岐阜に移り、方向を転じて南に下り
木曽川と長良川とに挟まれている羽島郡大浦の東蔵坊に入った。
これより西部戦線は俄然活気づいた。五月二日竹鼻城の攻撃が始まり、
十日には秀吉自らこれを指揮した。守将不和広綱は堅く守って
屈しなかったけど援軍きたらず、水攻めを防ぎかね、楼上一箇月余で開城して
長島に引揚げた。脇田城の吉村氏吉はまだ屈していなかったけど、
秀吉は六月十三日大垣に引揚げ、廿八日大阪に帰った。これにより
第三期尾張西部戦場に重点が移った。尾張の西南部は、信雄の居城なる
長島附近一帯の水郷であり、多くの河川がある。そこでここには水軍が参加し、
伊勢北部戦場と連関するという特徴が存ずる。そのうち長島城以東の尾張部に
蟹江の要地があり、佐久間正勝が守将であったが、正勝が信雄の命により
伊勢萓生に赴いた不在中、伊勢神戸の滝川一益は、九鬼義隆の水軍を語らい、
自子を出航して海上より日光川を遡り、六月十六日の夜蟹江城に入城した。
これは一大事だということで、公は清須にあってその報に接するや、
直ちに出動し、一益の軍の半分を遮って入城せしめず、
一益は上陸と同時に攻めたてられた。このこきの公の行動は神速機敏であった。
老人雑話にはこれを賤ヶ岳合戦の秀吉と比較し、「賤ヶ岳の軍は太閤一代の
勝事、蟹江の軍は東照宮一世の勝事也」と賞讃し、「東照宮は、
敵滝川左近一益、伊勢蟹江の城に取り篭るよし注進をきき、
沐浴して有しが、浴衣を着ながら馬を出し給ふ。跡に随ひゆく物は
井伊兵部計也(直政)。滝川船より上る。軍兵とも秘蔵の小性 杯(など)は
猶船にあり。東照宮の軍兵ども既に至て急に攻む。船中の精兵多く討る」
と記してある。聡明なる知能、即座の判断、的確なる打算、断乎たる意思、
疑わず、迷わず、直ちに行動に移って敵を掩撃(えんげき)したのであった。
清須と蟹江との距離は三里位である。翌々十八日の夜、下市場城を攻め崩して
ここに居った九鬼義隆を海上に追い返した。前田城をも奪った。
七月三日滝川一益は蟹江城を明け渡して伊勢三重郡楠に退去した。
これを掉尾(とうおまたはちょうお)の一振として一益は落魂の晩年を
迎えるように転落し去った。公は七月十三日清須に帰った。
秀吉は大阪から再び美濃に来り、七月十八日岐阜に陣した。
第二回の東下である。しかし殆ど何の為すところもなく、
同月廿九日にはまた大阪に帰着している。このころ越中の佐々成政が
秀吉に対して兵を挙げた。八月十三日秀吉はまた大恒に来た。
第三回の東下である。このころ武力戦は低調となり、第4回期外交戦が
主張を演奏しはじめた。秀吉は犬山口より尾張に入り、思い出の深い
楽田に陣した
けれど、九月十七日大恒に移り、十月十六日また大阪に帰着した。
選局の大勢は秀吉にとって不利な方向に動いた。
公と信雄とは九月廿七日共に清須には入り、十月十七日公は岡崎に帰り、
信雄は長島に帰った。三人がそれぞれ戦場から引揚げてしまったのは、
武力戦に終末に近づいていることを示している。武力戦が沈滞したのに反し、
外交戦は活発に継続さられ、公も秀吉も、盛んに遠国諸将に連絡して
敵の背後を攪き(みだき)乱そうとした。八月上旬以後、公が発送した
書状だけでも、最も多き四国の香宗我部親泰宛のものを始めてとして、
信濃高遠の保科正直・河内の保田安政・信濃松本の小笠原貞慶・
越中の佐々成政の武将と思われる不和勝光・丹後の蘆田時直・
紀伊の高野山金剛峯寺等、その他に及んでいる。香宗我部親泰は
長宗我部元親の弟であり、親泰によって元親を動かし、
秀吉の背後を脅かせしめたのである。
秀吉の外交は、織田信雄を篭葢することによって成功した。
秀吉は十月二十日近江坂本に帰ってより、方向を転じて
北伊勢に向かい、桑名の西南なる縄生に蒲生賦秀を置き、
その西方なる桑部に蜂須賀家政を置いて信雄に対しめた。
信雄はこれを清須の酒井忠次に報じ、忠次は更にこれを岡崎の公に報じた。
公は十月九日清須に赴き、酒井忠次・榊原康政を桑名に遣わして西軍に
備えさせた。秀吉も十月七日縄生に来た。両雄はまた近々と対陣したけれど
花々しき衝突はおこらずその間に秀吉は富田知信・津田信勝を遣わして
信雄と講和の交渉を開かせ、その結果十月十一日に至り、秀吉は桑名の
東郊なる町川原において信雄と会見し、両者間の和議は成立した。
それは秀吉と信雄との講和であって、公は両者の和議の成立を承認し、
十一月十六日石川数正を秀吉の許に遣わして祝賀し、
清須を引払って岡崎に赴き、十七日諸将をそれぞれの城地に帰らせ、
廿一日自分もまた久しぶりに浜松に帰った。秀吉もまた兵を撤して伊勢を去り、
十七日近江坂本に引揚げ、尋で京都に帰った。これで前後九箇月に
至った小牧長久手合戦は完全に終了した。
しかしこれ飽くまで信雄と秀吉との講和に基づける戦争終結なのであり
公と秀吉との講和ではなかったので、秀吉は十一月廿一日富田知信・
滝川雄利等を使者とし、公の来賀に対する答礼をも兼ねて和議を
謀らしめたけれども、公はこれを肯んせず、ただ秀吉が信雄の勧告により、
公の子を養いたいと申し入れたのを承諾しただけであった。
この承諾により十二月十二日公の第二子義伊は浜松を発して大阪に赴いた。
石田数正の子勝千代・本多重次の子仙千代がこれに随従した。
このとき義伊は十一歳。後年の結城秀康である。
十二月十四日信雄は浜松に来って援軍の好意を謝した。廿五日越中の
佐々成政が遥々浜松に来たけれど時すでに遅く、信雄を清須に訪ねたけで
空しく帰り去った。


今川国氏


あのむりやり自殺された羽柴なんとかって人が死んだたたかいでしたよね
あれはねあの人があそこで死んでればなにもこらなかったでしょうね
あの徳川の本国三河にいこうとしたところを先回りされてころされたんでしたよ

あれねもっと速くいけばよかったんですよ
あれね歩きながら行ったんですよ
馬なんかすくなかったらしいです
ですからこれは徳川の勝ちですね
織田なんかもう理由のかざりつけものですね
今回はまじめにいわしてもらいました
いいぞ!!ペテン師家康(ここまでまじめだったのに)(爆)


伊勢新九郎

 この戦いの勝敗を分けたのはやはり、秀吉のかなりの戦略ミスだと思います。
三河に攻め入る軍勢を率いていたのは羽柴秀次でしたが、秀次は賤が岳の戦いの前
に、滝川一益を攻める時などに、指揮官としての無能ぶりを露呈していて、
それにもかかわらず秀吉が三河攻めの大将に秀次を選んだのは、
「普通に行けば勝てるだろう」と高をくくって本当は無能な後継予定者に
少しでも箔をつけるためだったとも考えられます。
 結局秀次は、秀吉の思惑に応えることはできず、敗れてしまい、
秀吉は家康に相当な譲歩をして講和することになります。この時の秀吉の
外交戦略の巧みさがよく強調されることがありますが、家康にしてみれば
秀吉と正面切って戦いつづけても戦力差から考えて最終的に勝利する
見こみはなかったでしょうし、もともと「有利な形で講和に持ちこむ」
ということを考えていたと思います。そうすると戦後においても
全て家康の思惑通りになったわけで、秀吉の外交的勝利と一概に
言えるものではないと思うのですが、どうでしょうか?

無風道人

小牧、長久手の合戦は初期の豊臣政権のもろさを
如実に表しています。先祖代々の家臣や
譜代を持たぬ秀吉は、この時期、
織田家の譜代衆を寄せ集め宥めながら
秀吉に味方した方が得である演出や実際の
戦闘での勝利を宣伝し味方を募り戦力の拡大を
していました。秀吉より能力や戦力、
旧織田家での序列が劣る大名でも代々、
織田家で忠勤を励んできた格式が高い家の出身者は
マダマダ秀吉を軽んじ自分の意見が通らなければ
戦線からの離脱どころか裏切りまで行いかねない恐れが
有り、池田、森の2将の申し出を拒否出来るほどの
強大な権限を持ちませんでした。結果、
中入りと言う相手が愚将でなければ
成功が難しい戦略提案を受け入れてしまいます。
当時、徳川家には、ご存じの通り、家康の他にも酒井、
石川と戦上手がおり、まだ若いながらも
天下に隠れ無き天才肌の平八郎忠勝まで
一手を率いて従軍していましたから中入りが
成功する筈が有りません。池田、
森の両将を押さえきれなかった時代の
秀吉を考察する事が出来る合戦です





投稿本当にどうもありがとうございました。
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