第十八回(石垣原の合戦について)

皇武

前編

 関ヶ原の戦いを時を同じくして、現在は
温泉の街・大分県別府市の高台で起きた
石垣原の戦いについて紹介します。
 当時、豊前中津の黒田家は、豊臣政権内部の
大老・徳川家康と奉行衆・石田三成の確執が
武力闘争に発展するであろう事を予見し、
その対策を打っていました。黒田家当主・黒田長政は、
権力拡大に活発に動く徳川方に付き、状況把握に務め、
その父・隠居の黒田如水は領国豊前に戻り、
瀬戸内海に張った連絡船網より石田方の
情報収集を開始。予見は的中し、
石田三成の西軍挙兵で事態は急変。黒田家の予想では、
文官肌の石田三成が軍事クーデターによる
大坂入城で、徳川家康排斥を
企てるものとしていました。そこで、
対クーデター策として、大坂黒田屋敷に
如水の両腕とも云える重臣・栗山善助と
母里太兵衛を監視役に置き、
豊前中津より如水指揮の制圧軍来援をもって
抑える事を目論でいました。が、
大老・毛利輝元と宇喜多秀家の大坂在城中の
挙兵だった事で、予想以上に正規で
大規模な軍事行動となりました。
この事態に連絡途絶となった黒田父子は、
それぞれの行動をとる事に。
特に大坂城制圧軍の募兵・編成に掛かっていた
黒田如水は、一時期行動の自由を失いますが、
栗山と母里の重臣二人が大坂屋敷より帰還し、
関東出兵中の長政との連絡回復した事により、
再び行動を開始。隣国・小早川領と
吉川領からの不安を除かれた為、
豊前中津を約八千の将兵を率いて南進して、
豊後に点在する親奉行派の城砦を
威圧・攻略にかかりました。
直接に石田三成を討つ方針は息子・長政に任せて、
如水は手元の兵力を有効に使い、
黒田家の勢力拡大を図る事にしました。しかし、
進攻した豊後で友軍・細川家の飛地である杵築城が、
かつての豊後国主・大友義統の挙兵来襲で
窮しているとの報を聞き、攻城中の軍勢から、
援軍を割いて送る事にしたのです。
援軍の将は重臣・井上九郎左衛門。
彼が実質の石垣原の戦いで、黒田軍の指揮を執ります。
大友軍は杵築城攻めを諦め、
黒田軍に決戦を挑むべく石垣原で迎撃態勢を固めます。
大友軍はこの溶岩弾礫が形成した天然の防壁で、
兵力で優る黒田軍に対し得るとの思惑がありました。

後編

 大友義統は石垣原近くの立石城(といっても
廃棄されていた砦)に籠り、前線の指揮は
旧臣・吉弘嘉兵衛に任せました。
彼は鎮西一の剛勇で知られた立花宗茂の従兄にあたり、
同じく武勇に優れる将でした。
黒田軍・井上支隊が杵築城を撤退した大友勢を
追撃中との報を聞いた黒田如水は、
攻略中の安岐城を放棄して(直後に城方が
追撃に出てきたが、殿の栗山善助の部隊が
伏兵によって撃退する)石垣原へ急遽転進を開始し、
井上支隊に大友軍攻撃を控える伝令を出しました。
如水の方針は、大友軍を不戦屈服させて
自軍に取り込む事にあり、その為に
肥後熊本の加藤清正に小部隊でも良いので
援軍を送られたいとの要請を出します。
これは大友軍の士気低下を狙っての事でした。
皮肉な事に、大友軍の将・吉弘嘉兵衛も
黒田軍に加わるように主君・義統を
説得しようとしたのですが、
受け容れられませんでした。
 黒田軍・井上支隊約四千(杵築城の細川勢を含む)が
石垣原の手前に展開したのは慶長五年九月十三日。
まさに関ヶ原合戦直前でした。
迎撃する大友軍前衛部隊二千(吉弘嘉兵衛指揮)は
石垣原の各所に兵を伏せて待ちうけます。
支隊を指揮する井上九郎右衛門は黒田本隊の到着を
待つべきと、この時の軍議で主張しますが、
中津ででの募兵で集まった浪人衆や逆襲に逸る
杵築城の細川勢が急戦を口々に唱えて
これを抑えられず、ここに両軍の戦闘が
開始されました。石垣原の突破を図るべく
黒田軍・井上支隊は三段構えの波状攻撃を仕掛けます。
が、大友旧臣団を指揮する吉弘嘉兵衛は、
各所の伏兵で敵軍を寸断しつつ、
彼自身が直接率いる精鋭部隊の各個撃破によって
一段目・二段目を撃退しました。しかし、
井上支隊の三段目・九郎右衛門の部隊が
石垣原に進軍を始めた時に、
吉弘嘉兵衛は大友軍の防戦による消耗に限界を悟り、
捨て身の突撃を決意します。もう一つ彼の心中に、
如水本隊の到着前でこの苦戦では次が無い、
と判断したものと思われます。この日で
最も激しい戦いが、両軍の指揮官同士によって
火蓋を切りました。余りの接戦に、
九郎右衛門と嘉兵衛が直接出会ってしまい、
一騎打ちが始まりました。この二人は
先立つ朝鮮出兵時には陣を同じくし、
旧知の仲だったのです。互いが望まぬ戦いの中での
再会だった為か、口上もなく槍を合わせましたが、
終始前線で戦い続けた嘉兵衛の穂先は
敵将の鎧を貫く事ができず、九郎右衛門の
鋭い一閃が彼の胸板を突き貫けました。
 その日の夕暮れ近くに、黒田如水本隊が
石垣原を見下ろす実相寺山に着陣し、
立石城の大友軍残党に降伏勧告の使者を送りました。
使者となった母里太兵衛は大友義統を一喝し、
即座に投降させました。ここに
豊後守護四百年の大友氏の命運は尽きました。





投稿本当にどうもありがとうございました。
戻る