第十六回(膳城攻防戦)

とっとこハム太郎

戦国時代における城攻め戦は数多いがここでは是非余りメジャーでない、
どちらかと言えば、マイナーである膳城攻防戦を
述べたいと思う・・・なのだ(・_・)最もこの膳城攻防戦は
武田勝頼軍が「素肌の城攻め」として、
伝説を残している・・・なのだ(・_・)!!
@武田勝頼
膳城攻防戦が勃発したのは西暦1579年(天正7年)の
夏であった・・・なのだ
(・_・)長篠合戦敗北後、武田勝頼に置かれた
当時の状況は・・・遠江においては徳川家康の攻勢により、
二俣、犬居が家康により、奪還されてしまい、更に遠江における
武田の重要拠点である高天神城も危機的状況であった・・・なのだ(>_<)
そして北三河においては武田勢力は駆逐され、
また東美濃においてはやはり織田信長の攻勢により・・・
後退を余儀なくされた状況であった・・・なのだ(+_+)
 しかしながら・・・武田勝頼は山梨県と長野県の全域、静岡県東部、
群馬県西部を支配しており、依然として徳川家康を圧倒する動員力及び
経済力を維持していた・・・なのだ(・_・)また外交面では
「御館の乱」以降・・・上杉景勝と同盟関係を樹立させたが・・・
逆に北条氏政と同盟関係が破綻してしまい・・・織田、徳川、北条から
圧力を加えられてしまった・・・なのだ(>_<)
 そして武田勝頼は遠江戦線が危機的状況であったにも関わらず、
遠江救援の出兵はせずに何故か反対方向である
上野(群馬県)に出撃する・・・なのだ(?_?)何故勝頼が
群馬県に派兵したのか・・・彼個人による判断だったのか・・・
もしくは政治的な意図があったのかは定かではない・・・なのだ(?_?)
 群馬県全域を占領する目的で北条に圧力を加えるつもりだったのか・・・
北条との緩衝地帯を設けるつもりだったのか・・・同盟関係である
上杉との連携を視野に入れた軍事行動だったのかは
議論が分かれることである・・・なのだ(?_?)また山梨・長野の人民救済で
群馬県に略奪行為を行う目的のための軍事行動であったとも
充分に考えられる・・・なのだ(?_?)
A膳城
膳城は現代の群馬県勢多郡粕川村膳字新宿に
所在していた・・・なのだ(・_・)室町時代に築城された記録があり・・・
戦国時代により、上杉、北条の攻防戦により、
城主が転々としていた・・・なのだ(@_@)
武田勝頼が膳城を攻撃した時には北条氏の勢力下であり・・・
城主は北条方の武将である大胡民部左衛門であった・・・なのだ(@_@)
 膳城は丘に築城された平丘城であった・・・なのだ(・_・)
城の構造は東西南北の郭に囲まれており、本丸を中心に二の丸、
三の丸で構成されていたようで・・・土
塁、逆茂木、柵、空濠などで防備を強化されていたと思われる・・・なのだ(・_・)
城主が何度も入れ替われば・・・その分だけ城の構造も
強化されていくのは当然のことである・・・なのだ(@_@)
また膳城には北条氏独特の築城方式であった畝堀が
発掘調査によって明らかにされた・・・なのだ(・_・)
 膳城は畝堀を除けば・・・戦国時代における
一般的な城であったであろう・・・なのだ(・_・)
また膳城が管轄する地域には村々が
点在していたとも思われる・・・なのだ(・_・)
B伝説
「素肌の城攻め」とは兜・甲冑を装備せず・・・
城を陥落させたことである・・・なのだ(・_・)
甲冑を装備せずに城を陥落させたことにより、
武田勝頼の「素肌の城攻め」として有名になり、
伝説となった・・・なのだ(@_@)膳城の城攻めにも
色々と伝説があるようだが・・・例えば武田軍が膳城を攻囲してる最中、
膳城内で酒の席で口論となり、城内大混乱に陥り、
それを見た武田勢が素肌で城内に乱入して、
城を陥落させたとか、逆に膳城の守備兵が酒の酔いの勢いに任せて
城内から出撃して、武田勢に襲い掛かったが・・・
素肌であった武田勢に返り討ちにされたとか
言われていたようであったが・・・実際の膳城攻防戦は伝説とは異なり、
ごく普通の一般的な攻防戦であった・・・なのだ(@_@)
C攻防戦
武田勝頼は膳城を攻撃する前に・・・群馬県に所在する
北条方の伊勢崎城、前橋城、大胡城などを攻略した・・・なのだ(・_・)
そして群馬県北部・東部で大規模な
略奪行為をしたと思われる・・・なのだ(+_+)
武田勝頼が動員した兵力については1万であったと
地元地誌などは説明しているが・・・山梨県から出撃した際には
7〜8千の兵力が妥当であったと思われる・・・なのだ(?_?)
最も膳城を攻撃する際には前橋・伊勢崎・大胡などの
諸城の戦争捕虜も含まれていたとも考えられるので・・・
膳城攻囲時には1万近い軍勢であったとも考えられる・・・なのだ(・_・)
 攻囲中の武田軍は正規軍に加え・・・戦争捕虜または
戦争奴隷などで溢れ、各資材や略奪品などが山のようになっていたかも
知れない・・・なのだ(?_?)そして武田軍は戦争捕虜や奴隷を酷使して・・・
膳城の周りに付け城・・・つまり
幾つかの砦を構築したに違いない・・・なのだ(@。@)
付け城の目的は城側に精神的圧力を加えると共に城側の援軍阻止や
補給路の遮断である・・・なのだ(・。・)
 武田軍は膳城を攻撃する際にはごく一般的に
鉱山夫(工兵)を駆使して・・・城の構造物を破壊する
常識的な作戦に出たと思われる・・・なのだ(?_?)
武田軍の鉱山夫達は竹束や投げ熊手を使い、
または坑道を掘り塀・柵を破壊し・・・武田軍は井楼から大鉄砲で
膳城の城郭を狙撃したに違い・・・なのだ(・_・)
 恐らく武田軍の大部分は真夏のことでもあり・・・
暑さに耐えかね兜だけを装着して、上半身裸や平服の者や最初から、
甲冑や兜などを一切装備していない平服のままであったり・・・
暑い中にも関わらず甲冑完全装備の者など、
とにかく気候の関係上、武田軍は装備については武将、
雑兵なども含め個人により、千差万別だったであろう・・・
と思われるなのだ(・_・)
 こうして甲冑を装備している者、甲冑を装備していない者などが
混合しており・・・膳城落城後、話がいつの間にかに大きくなり・・・
武田軍は甲冑を一切装備していなかった「素肌の城攻め」となって
伝説になったのであろうと考えられる・・・なのだ(?_?)
 また膳城側の兵力については6〜7百人だとする
地元地誌の説明があるが・・・膳城が管轄する村々の住民が
武田軍の略奪を恐れて、膳城に避難していたり、
伊勢崎・前橋・大胡などの敗残兵が膳城に逃げ込んできたことも
考えられ・・・膳城には千人以上いたとも予想もされる・・・なのだ(?_?)
 タダでさえ狭い膳城に千人以上も篭城すれば
一番問題なのは夏季の時期だったこともあり、飲料水の問題であり、
清水に関わる衛生の問題でもある・・・なのだ(@。@)
膳城では篭城中は常に清水不足に悩まされていたであろう・・・と
容易に想像が出来るなのだ(>_<)
 膳城の二の丸、三の丸陥落後・・・膳城は落城したと思われ・・・
大胡民部左衛門は切腹した・・・なのだ(>_<)
そして膳城にいた人々は武田軍の捕虜となり、奴隷として
山梨県に連れ去られたと思われる・・・なのだ(>_<)
 また膳城は落城後、廃城になったことを考えると武田勝頼は
膳城に戦略的価値を認めてなかったのであろう・・・なのだ(・_・)
そして膳城の兵糧や資材、戦争奴隷は武田軍の雑兵の給与として
分け与えたに違いなく・・・武田軍の雑兵達の間に分け前を巡って
いざこざが起きていたかも知れない・・・なのだ(?_?)
D総括
膳城における「素肌の城攻め」はいつの間にやら話が大きくなった
伝説だと思われる・・・なのだ(・_・)確かに武田軍の中には
真夏のこともあり、素肌の者も多くいたであろうが・・・
現代に伝えられる「素肌の城攻め」はあくまでも伝説である・・・なのだ(・_・)
そして両軍共に飲料水の問題もさることながら・・・兵糧の腐敗防止にも
苦労したに違いない・・・なのだ(?_?)
 また勝頼は膳城に城番を配置させなかったことから・・・膳城に対しては
焦土戦術であったと想像できる・・・なのだ(・_・)
焦土戦術の基本はあくまでも略奪である・・・なのだ(・_・)
こう考えると武田領内は深刻な飢餓に見舞われていたとも
考えられる・・・なのだ(?_?)





投稿本当にどうもありがとうございました。
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