第十五回(湊川合戦)
とっとこハム太郎
西暦1336年に起きた湊川合戦は南北朝時代において
著名な合戦であり、楠木正成の戦死した合戦として
知られている・・・なのだ(・_・)従って湊川には楠木正成を奉る
湊川神社があり、また正成の銅像などがあることでも
有名なのだ・・・(・_・)
湊川合戦の主役はあくまで楠木正成であり、
足利尊氏や新田義貞などは脇役にすぎないイメージは
現在でも続いている・・・なのだ(・_・)
南北朝時代と言えば「太平記」と「梅松論」が有名だが・・・
「太平記」によると楠木正成が後醍醐天皇に京都を放棄、
再度比叡山に立て篭もり、足利尊氏が京都に上洛後、
京都の糧道を断ち、反撃を開始する戦術論を進言したが
不採用にされたことや「梅松論」では足利尊氏と和睦して
新田義貞を追放することを進言したがやはり不採用になった話は有名で
ある・・・なのだ(・_・)結局正成の策は採用されず、
既に正成が死を覚悟して兵庫へ救援に向かったのが
今まで語られてきた真相である・・・なのだ(@_@)
しかし「太平記」「梅松論」にしてもどこまで信憑性があるのかは
謎である・・・なのだ
(?_?)「太平記」の京都放棄論は現実的な話ではあるが・・・
京都を放棄、その後反撃して京都を奪回できるかどうかは
わからないと思う・・・なのだ(?_?)実際に湊川合戦後、
京都を放棄して比叡山に撤退した官軍であったが、
反撃しても京都奪回は成功しなかった・・・なのだ(+_+)
また「梅松論」の尊氏と和睦と義貞追放の話であるが・・・
本当に尊氏と和睦後、義貞を追放してしまったら、
後醍醐天皇の権威失墜してしまうであろうし・・・
信用そのものがなくなってしまうことが目に見えている・・・なのだ(>_<)
また世間が新田義貞に同情するであろうし・・・
進言した正成も朝廷から尊氏と通じていたのではないかと
疑惑をかけられてしまうであろう・・・なのだ(+_+)
また決戦を目前に控え、死を覚悟するという話は
長篠合戦の武田軍重臣にも出てくるが・・・一軍の指揮官である
正成自身が敗北を予期し、死を覚悟して
兵庫に向かったならば部下が動揺して士気低下、
脱走が相次ぎ軍そのものが戦闘前に崩壊してしまう・・・なのだ(>_<)
正成は最初から勝算があると考えて兵庫へ救援に向かったと
考えるべきではないのであろうか・・・なのだ(?_?)
また皇国史観の時代以来・・・湊川合戦は正成ばかりが
注目されているが官軍の主役は
やはり新田義貞と見るべきであろう・・・なのだ(・_・)
@兵力
「太平記」の記述に見られる湊川合戦の足利軍の兵力が50万、
官軍兵力5万というのは余りにも
誇大な数であることは間違いない・・・なのだ(+_+)
当たり前だが当時の時代に50万も60万も
動員出来るわけがないのだ(・_・)
足利軍が8千7百、官軍4千6百ぐらいが
妥当の兵力であると推測している・・・なのだ(?_?)
足利軍は陸海に分かれて兵庫へ向かっていた・・・なのだ(・_・)
海上は足利尊氏が率いており、細川・上杉・大友・少弐・河野などの
武将で構成されていた・・・なのだ(・_・)
兵力は4千2百であろうか・・・なのだ(?_?)
陸上は足利直義が率いて、高師秦・斯波・赤松・
吉川・小早川・三浦などが配下にいた・・・なのだ(・_・)
兵力は4千5百か・・・なのだ(?_?)
足利軍は足利一族を中心に九州・四国・中国の武将等で
構成されているのがわかる・・・なのだ(・_・)
一方の官軍は海上から進撃してくる尊氏に新田義貞が迎撃し、
陸上から進撃する直義には楠木正成が迎撃した・・・なのだ(・_・)
海岸沿いの和田岬に新田義貞が布陣し、
新田一族を中心に土居・得能等の伊予勢、
九州の阿蘇一族などを配下にして兵力は2千(?_?)、
やはり海岸沿いの経島に脇屋義助・大舘氏明が布陣しており、
兵力は1千4百(?_?)、湊川の西宿にある
標高85メートルある会下山に楠木正成が
河内の土豪等を中心に1千2百で布陣していた・・・なのだ(@_@)
A湊川
会下山に布陣した正成は盾を横一直線に連ねて盾を防壁とする
垣盾を構え、逆茂木や杭、鹿垣、柵などで防備を固め
野戦築城を構築したと見られる・・・なのだ(・_・)
恐らく正成は会下山周辺の木を伐採して、
野戦築城の材料に使うと共に直義軍に遮蔽物として
利用させないために周辺の木を伐採したと考えている・・・なのだ(@_@)
また当時の会下山周辺は沼地だと言われており、
正成が標高85メートルの会下山を野戦築城したことは
当然と言えば当然と言えよう・・・なのだ(・_・)
正成は地形を利用した防御戦に徹する作戦で
いたことがわかる・・・なのだ(@_@)
直義軍は沼地で進撃が思うようにいかず、
遮蔽物がないために身を晒しており、正成軍の
矢と投石攻撃で盾で防御しつつも野戦陣地を攻略できず
苦戦していた・・・なのだ(+_+)一方海岸沿いでは
細川勢の2百余りが経島に上陸した・・・なのだ
(・_・)だが、経島に布陣していた脇屋・大舘勢に包囲されてしまい・・・
細川勢は海上に撤退し、撃退された・・・なのだ(・_・)
そこで細川定弾は紺辺浜付近に上陸しようとした・・・なのだ(・_・)
背後から上陸されたら包囲殲滅されてしまうことを恐れた
新田義貞は脇屋・大舘と合流して、西宮まで後退した・・・なのだ(・_・)
新田義貞が西宮まで後退した後、足利尊氏は
和田岬付近で無血上陸を果たした・・・なのだ(・_・)
その頃直義軍は正成の野戦陣地に進撃を阻止され、
須磨まで後退するほどであったが・・・尊氏が援軍を差し向け、
会下山周辺を包囲した・・・なのだ(・_・)背後を断たれた楠木軍は
恐慌状態になったと考えられる・・・なのだ(@_@)
この時代足利軍にしろ新田軍にしろ楠木軍にしても
雑兵つまり伴類と呼ばれる徒歩兵が
大部分を占めている・・・なのだ(@_@)伴類は一般民衆で
構成されており、戦況が不利になると四散してしまう
頼りなさをもっている・・・なのだ(+_+)
従って背後を断たれた楠木軍の雑兵は恐慌状態になり、
正成の指示に従わず持ち場から離れ、
逃亡してしまったと考えられる・・・なのだ(+_+)元々雑兵・伴類など
は主人との主従関係は薄く、裏切りや脱走など常にあったと思われる・・・なのだ
(+_+)こうして楠木軍は四散してしまい・・・楠木一族郎党70数人まで減り、
正成は湊川の村で一族・従類と共に自害してしまったのだ(>_<)
B生田森
西宮まで後退していた新田義貞は足利兄弟が合流したことを知り、
生田森まで引き返してきた・・・なのだ(・_・)
義貞は会下山で布陣している正成の救援と足利軍の背後から攻撃して、
正成と共に足利軍を包囲殲滅する考えでいたかもしれない・・・
なのだ(?_?)楠木軍が健在であれば包囲殲滅も可能であったが
既に正成は自害しており、楠木軍は四散していた後であった・・・なのだ(+_+)
義貞は敗走してきた楠木軍を自軍に加え、軍を三つに分け、
生田森で足利軍と激突した・・・なのだ(・_・)ここにおいて
新田軍と足利軍が本格的な戦闘状態になったのだ(・_・)
義貞は森の森林を遮蔽物として使い・・・弓・投石などで防衛しつつ
足利軍の進撃を阻止したと思われる・・・なのだ(・_・)
また足利軍も森林に身を隠して攻撃する新田軍相手に
苦戦したと考えられる・・・なのだ(?_?)だが、奮闘していた新田軍であったが
戦力が2倍以上の足利軍相手に疲労し、尊氏が背後から回るのを恐れ、
義貞が殿軍を務め京都へと撤退した・・・なのだ(・_・)
この時尊氏が義貞の背後を遮断したら楠木軍同様、
新田軍も雑兵等が逃亡して軍が崩壊していたかもしれない・・・なのだ(?_?)
Cその他
足利尊氏の勝利した理由は圧倒的な兵力と機動力のある水軍を
駆使したことに他ならない・・・なのだ(^_^)
九州・四国・中国の水軍系武将を多く味方につけたことは
ことのほか大きかったようだ・・・なのだ(^_^)それと
「戦いは数だよ!兄貴ッ!!」と言えば某アニメの名セリフだが・・・
まさしく湊川合戦は数は力であるといった
合戦だったと思っている・・・なのだ(・_・)また官軍は水軍を
保有していなかったのが痛かったと思われる・・・なのだ(・_・)
官軍の土居・得能が水軍として参加していたのではないかと
言われているが真偽は不明である・・・なのだ(?_?)
投稿本当にどうもありがとうございました。
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