第十四回(白村江の戦い)

とっとこハム太郎

 西暦663年に勃発した白村江の戦いは倭王権が
記録上知られる初めての対外戦争である・・・なのだ(・_・)
また白村江の戦いは朝鮮半島を中心に唐、高句麗、新羅、百済、
倭などの国々を巻き込んだ古代における東アジアの大戦でもあり、
その後の東アジアの国際情勢は
大きく変化した戦いでもあったのだ(・_・)

@当時の朝鮮半島情勢
西暦660年、唐の蘇定方将軍の武将劉仁軌の率いる
水軍の支援を受けて、新羅は百済に対して防衛から攻勢に転じ、
百済の首都四比城を陥落させ、百済の義慈王をはじめとする
王族を捕虜として百済を滅亡させたのだ・・・(+_+)
以後百済の遺臣で僧侶である鬼室福信は唐・新羅に対して
百済復興闘争を開始した・・・なのだ(・_・)
 そして倭に使者を送り、人質となっている百済の王族である
余豊章の帰国と倭に援軍を要請したのだった・・・なのだ(・_・)
一方朝鮮半島北部でも大きな動きがあったのだ(@_@)
唐の蘇定方将軍が水陸より高句麗に進撃を開始する
緊迫の事態になり、高句麗も倭に
軍事援助を要請するのであった・・・なのだ(@_@)
こうして朝鮮半島は東アジアの火薬庫となり・・・
唐・新羅陣営と倭・百済・高句麗陣営に分かれ、
古代東アジア大戦になったのである・・・なのだ(@_@)

A当時の倭の状況
百済からの軍事援助の要請に対して女帝斉明天皇は
朝鮮半島に軍事介入することを決意した・・・なのだ(・_・)
西暦661年1月、北九州朝倉を大本営として
九州・中国・近畿の豪族等を北九州に集結させ、
渡海のため造船を命じたと思われる・・・なのだ(・_・)
そして朝倉宮において遠征前に倭軍の観閲式を行っていたと
考えられる・・・なのだ(・_・)だが、7月に斉明天皇が崩御・・・
代わって中大兄皇子が即位して、天智天皇となり
倭軍の総指揮官となるのであった・・・なのだ(・_・)
また当時の倭王権は日本全土を統治していたわけでなく、
北海道、東北、北関東、北陸東部、九州南部一部地域などは
支配地域ではなかったようなのだ(・_・)
まだこの時代蝦夷、熊襲、隼人などが存在していたことになるのだ(・_・)

B倭軍
当時の倭の支配地域を考慮にすれば・・・
兵力は4万6〜8千だと考えている・・・なのだ(?_?)
後の豊臣秀吉の朝鮮出兵時には18万以上の動員力であったが、
朝鮮出兵と比較すると倭軍は4分の1程度であるが
倭王権の国力を挙げての総力戦であり、
当時の倭の国力から考えても
4万数千が限界だったと思われる・・・なのだ(?_?) 
 しかし4万以上の大軍を動員したことは日本にとって
史上空前のことであり、少なくても室町時代後期になるまで
4万以上の大軍を動員したことなど皆無であったと思う・・・なのだ(@_@)
 編成であるが・・・西日本の豪族だけでなく、南関東、東海、
近畿、中部などの豪族軍も参加していたと考えれば
基本的に豪族連合軍であったが・・・蝦夷遠征の折に
獲得した蝦夷奴隷や蝦夷捕虜中心の俘囚又は
南九州の隼人からなる異民族傭兵部隊が
倭軍の主力だったと考えている・・・なのだ(・_・) 
異民族傭兵部隊は洋の東西を問わず、
臣民軍隊と共に専制君主の基本的な戦力である・・・なのだ(・_・)
蝦夷や隼人は狩猟系民族であり、弓揃の技術が長けていたと思われ、
倭軍の中心になっていたと思われるのだ(・_・)

C遠征
4万以上の大軍のうち、3万数千が渡海したと思われ・・・
1万弱が唐・新羅の侵攻に備え、
北九州で防備していたと考えられる・・・なのだ(?_?)
まず5千の兵力で余豊章と共に先発・・・
続いて2万7千からなる大部隊が朝鮮半島に上陸して、
新羅占領地に侵攻・・・
任存城、州柔城を奪回した・・・なのだ(^_^)
三軍として400艘の軍船からなる水軍が
白村江に向けて進撃を開始した・・・なのだ(・_・)
 ここまでは順調であったが・・・帰国した余豊章と鬼室福信が対立・・・
鬼室福信が粛清されてしまい・・・
百済復興軍は指揮系統に混乱が生じてしまったのだ(+_+)

D白村江
400艘からなる倭水軍は白村江で170艘の唐水軍の
迎撃に遭う・・・なのだ(・_・)船舶数は倭水軍の方が多かったが・・・
唐水軍の軍船の方が本格的な外洋船であったと思われ・・・
倭の軍船よりも大きかったと考えられる・・・なのだ(・_・)
しかしながら、倭の軍船の戦闘力が相当落ちるのかと言うと
1艘あたりの戦闘力の落差があったわけではなかったようなのだ(・_・)
「日本書紀」における白村江の部分でも
全く問題にしていなかったようなのだ(・_・)
 そして倭水軍は中央突破作戦に出たが、唐水軍は陣形を組み、
左右からの包囲殲滅作戦に出たのだった・・・なのだ(・_・)
しかも倭水軍は戦域に到着した順に唐の軍船に攻撃を仕掛ける
逐次投入という戦術上ミスを犯してしまうのだ(>_<) 
戦闘は恐らく倭、唐共に相手の軍船に斬り込む白兵戦ではなく、
船上からの矢戦だったと思われる・・・なのだ(・_・)
船上には防御として、盾、稲束などがあり、終始矢戦で
お互い応戦していたのではないか・・・なのだ(・_・) 
だが、唐水軍は倭水軍に対して火攻めをおこなったのだ(・_・)
火矢で攻撃したり、倭の軍船に接近して油をかけ、
松明や燃えた草束を投げ込み、
風下からの火船の体当たり攻撃だと想像する・・・なのだ(・_・)
そして唐には毒薬、糞尿、煙などを効果成分とする
原始的な化学兵器も有ったかもしれない・・・なのだ(?_?)
 また唐の軍船に砲・・・投石機など搭載されていた
可能性もあるのだ(・_・) 
結局、倭水軍は荒天で操船が上手くいかず、
包囲と火攻めに抗しきれずに敗北した・・・なのだ(+_+)

E倭水軍の敗北の原因
唐の水軍は組織的な集団戦であり、組織された指揮・統制で
訓練されていたのに対して、倭水軍は各豪族軍の寄せ集めであり、
統一的な訓練が不足しており、戦術・操船技術が
未熟だったと考えられる・・・なのだ(・_・)
 この後、大和王朝は国家による軍組織統一を図るが・・・
何故か水軍の規定がなく、水軍の常置を見る事が
出来ない・・・なのだ(?_?) 結局日本が統一的な海軍を
組織するには明治時代の連合艦隊結成まで
待たなくてはいけなかったのだ(@_@)





投稿本当にどうもありがとうございました。
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