第十二回(長良川の合戦)
リナ=インバース
長良川の合戦の謎
長良川の合戦の経緯はこれまで、斎藤道三が嫡男義龍を自らが追放した
元美濃国主である土岐頼芸の胤ではなかったかと疑い、
義龍を廃嫡して自分の実子である孫四郎か喜兵次を
その後継者に立てようと狙っていたが、その陰謀を事前にキャッチした義龍に
先手を打たれ、病気と偽って稲葉山城に二人の弟を誘い出されて暗殺され、
道三は慌てて兵を募ったがその数わずかに二千七百、
対する義龍軍は一万七千、そして4月20日の決戦の日、
信長の援軍も間に合わず、道三は討たれてしまった・・・・・
とゆうのがこれまでの通説である。
が、実際には道三はこの二年前の天文二十三年の時点で
すでに家臣団の信頼を失っており、隠居城の鷺山に移っていたのである。
当然ながら半ば強制的に隠居させられた身である道三は
義龍らの行う政策には口を挟めず、まして義龍の廃嫡など
全く思案の外だったのだ。また、司馬遼太郎氏が世に流布させた
「国盗り物語り」に描かれている道三一代による国盗り説も、
実際は父、長井新左衛門尉との二代によるものであることが
最近明らかになった。道三が戦いを挑んだのは
むしろ自らの政権復帰を掲げたものだったらしい。
二人の弟は、この計画に加担したために成敗され、また、
信長が援軍を派遣したのも彼の自主的な行動ではなく
道三からの要請に応じたのである。そうでなくては弟、
信行や他の織田一族をすべて敵に回し、西からは今川義元の圧迫が迫る中で
援軍を出すはずがない。また、斎藤道三は城下町の整備や
築城などにその才能を発揮したが、一方では戦国大名らしい政策を
あまり行っていない。むしろ、義龍の時代になってから
斉藤家は戦国大名らしい新しい政策を次々に打ち出し、
その勢力基盤を固めている。道三の時代は国内の情勢が
不安定だったこともあるが、謀略家としては一流でも、
やはり彼の政治家としての能力には疑問が残る。
投稿本当にどうもありがとうございました。
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