第十回(木崎原合戦)

bishop

 「耳川の戦い」や「沖田畷の戦い」が、九州戦国史で
メジャーな合戦でしょう。おそらく、全国デビューは信長の野望武将風雲録で
あることは間違いありますまい。まことに残念ながら、
それ以外の合戦が知られることはありません。

 この「木崎原合戦」は、九州の桶狭間とも呼ばれ、九州戦国期の
ターニングポイントにも当たるほどの、重要な合戦だと思います。
こと、島津家の命運を分けたとすれば、「耳川の戦い」や
「沖田畷の戦い」よりも、重いと思います。


 島津義弘は伊東家と国境を接する飯野城に、国境守備隊長として
配置されました。義弘は、西方に支城の加久藤城を築き、
妻と川上忠智に守らせました。

 一方、伊東家は祐賢が都於郡城、祐兵が飫肥城、
伊東家当主義祐が佐土原城を守り、忍者を放って
飯野城攻撃の作戦を練っていました。むろん、島津義弘も
女忍者と盲僧菊市らをつかって、情報を集めていました。

 さて、1571年の事。六月に島津家当主貴久が亡くなります。
日新斎が後見人についたとはいえ、
分裂抗争を繰り返していた島津家を一つにまとめた彼の代わりは、
誰もつとまらないだろうと、島津家は大きな衝撃を受けました。

 案の定、この隙に乗じて肝付氏が造反、伊東義祐も
肥後の相良家と手を結び、小林市の完全支配を実現させるべく、
挙兵します。精鋭だけを集めた 3,000 人を適地へ送り込みました。
この時、島津義弘の人数はわずかに 300 人。しかも、人吉城からは、
伊東家への援軍がやってくるというありさまです。

 島津義弘は、人吉城からの援軍を思いとどまらせるために、
虚旗を無数に配置し、「戦の勝敗は数の多少ではない。
全員が一丸となって勇気を奮って戦えば必ず勝てる。」と、皆を励まします。

 伊東家の総大将は伊東祐安。彼らは、
義弘夫人が守る加久藤城を第一攻撃目標に選び、夜に軍を進めました。
彼らは、すでに勝った気分でいました。しかし、
この攻撃目標選択は間違っていたのです。

 この城へと続く道路は狭く、兵力差を生かせないのです。
義弘が放った忍者の流言にのせられていたからだ、と伝えられています。

 加久藤城の守備隊は、さも多くの人数がいるように見せかけて
戦う必要があったため、樺山浄慶ら多くの勇士が討ち死にしましたが、
川上忠智の決死の突撃の甲斐あって、
闇夜の戦闘に疲れた伊東軍勢は退却を始めました。

 夜が明けました。

 伊東祐安は飯野城の南の池島川で相良家の援軍を待ちました。
しかし、到着が遅れているようです。待っている間に、
だんだん蒸し暑くなってきたので、鎧を脱いで川で泳いだり、
食事をしたりしていました。3,000 人もいれば、怖くありません。

 相良家の援軍が遅い...当然です、彼らは義弘が配置した
無数の旗に驚き、本国へと引き返してしまったのですから。

 島津義弘は「敵は油断している」と言い、鎌田政近らに兵を預け
(と言っても数えるほどですが)て挟み撃ちの作戦を授け、
自ら軍を率いて伊東本陣である木崎原へ突進しました。

 わずかの人数で義弘がこちらへ向かってくるのを発見した伊東軍勢は、
義弘を狙い打ちにすべく群がってきました。多勢に無勢、
油断も何もあったものではなく、島津義弘はうち負かされて
500m も後退させられ、彼の命に危険が迫りました。

 この時、六人の侍が「ここは我ら六人で守りますので、
その間に態勢を立て直して下され」と、捨て石宣言して砕け散りました。
命令された訳でもないのに、誰かが決まって味方の楯となる...
この現象は島津義弘の身に終始つきまといます。このように
多くの人間から命を分けて貰って生きてきた義弘が、
関ヶ原における石田三成の言動に我慢できるはずがありません。

 六名の勇者は全員討ち死に、しかし、
その間に回り込ませていた鎌田、五代の挟撃部隊が到着、
突撃を開始して伊東軍勢は隊列が乱れ始めました。
ついに、総大将伊東祐安が落馬して絶命しました。

 これを見た伊東祐信が憤怒の形相で義弘に槍を突き入れます。
気迫に押されたか、義弘は槍を防ぎきれず討たれそうになりますが、
馬が急に足を突き曲げたので、
顔面を貫くはずだった槍はそれて兜の上をかすめていきました。

 この隙を逃さず、義弘が逆に討ち取ります。続けて、
日の丸の前立てがある兜をかぶった伊東家の豪傑、長峰弥四郎が
刀を振りかざして義弘に斬りかかってきました。が、危ないッ!と思った
従者が分厚い木の楯を持って義弘との間に割って入ります。

 義弘はまたしても命拾いをしました。割って入った侍は
木の楯ごと、兜までも切り裂かれたからです。その太刀筋は
尋常ではありませんでしたが、彼も従者を相手にしている隙に
討たれてしまいます。

 島津義弘は後に「維新公御自記」で、
この激戦を記したとされています。

 大将を失った伊東軍勢は動揺して、指揮系統が混乱しました。
特に、経験不足の若い武将が多かったことがマイナスになりました。
ついに、伊東軍勢は敗走します。立場が逆転したのです。
逃げる敵を追撃するのは戦の鉄則。しかし、
二人の勇者が立ちはだかります。

 「日州一の槍突き」と称される伊東家家臣柚木崎丹後守と
比田木玄斎です。名のある勇者ほど首の価値は高い。
討ち取って名を挙げようと兵が群がってきます。伊東家にとって
死なすには惜しい勇将でしたが、彼らは仲間を逃がすために
自らが犠牲になることを決心したのでした。奮戦して討ち死にします。

 十時間にも及ぶ死闘は終わりました。島津軍勢の死者は 257 人。
伊東家はそれ以上、およそ 700 人とされています。義弘の馬は
この戦いの後、「膝突栗毛」と呼ばれるようになります。また、
義弘は、敵味方戦没者供養塔を建立して、冥福を祈ったとされています。

 この伊東家の敗戦が大友家を耳川へといざない、
神に和を誓った相良義陽と甲斐宗運の両者を
互いに戦わせることになるのです。この戦いが後の戦いに
どうつながってくるのか...歴史の面白さですね。


 さて、ひるがえって、ゲーム信長の野望を
ふりかえってみましょうか。伊東家は弱いですね...。
武将って、全然いないじゃありませんか。
世継ぎが設定されているだけです...。

 木崎原合戦を見ればわかる通り、伊東家を 1572 年以前から
貧弱設定にすることには疑問が残ります。この合戦にしても、
何度やっても結果は同じという類のものではありません。
それどころか何度やっても島津家の負けです。ところがゲームは、
何度やっても伊東家の負け。もう少し、バランスを見直して欲しいです。

島津 忠恒

木崎原の戦いこそ島津家が三州(薩摩、大隈、日向)統一の
最終段階へ向かう布石であり、義弘の戦上手ぶりがみられる戦いである。
この戦いは結果的に島津家の必殺戦法である
釣り野伏に分類されるのではと思う。300の兵で
3000の兵に勝ったという事実もすごいが、
もっとすごいのは加久藤城を守っていたのが義弘婦人広瀬氏、
付家老川上忠智とわずか数十の兵だったということである。
3000の兵の攻撃を6人の打ち死で押し返したというのである。
しかし更にすごいのは加久藤城の搦手付近に住んでいた
樺山常陸坊浄慶という山伏とその2人の子どもが
伊東勢が進軍するのに気付いて大声で城に知らせ
わずか3人で迎え撃ってしばらく支えた後に
討ち死にしたということである。加久藤城への入り口が狭く
局地戦であったと言われているが3人対3000人で
しばらく支えられたというのは、逸話のような気もするが
それだけ島津方が凄まじい戦をしたということであろう。





投稿本当にどうもありがとうございました。
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