第一回姉川の戦い


織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の連合軍が戦った合戦。
妹婿の長政の裏切りは先祖からの朝倉家の交流の力に長政が勝てなかったことを
意味しています。父・久政も時代の流れについていくことができなかったんでしょう。
浅井家は同盟してまもない。(まだ信用できない)織田家より古くからの
付き合いの朝倉家と共に戦うことにしたのです。
 そこには父からの圧力があり、しょうがなく朝倉家と結んだという話もありますが
結局は時代の流れに勝てなかったのです。
 そして信長は裏切り物の浅井家とも戦う羽目にあい、1570年6月21日、
長政の居城・小谷城の麓に陣取った。しかし、信長は難攻不落と謳われた小谷城を
攻めようとはせず、その喉元にあたる要衛・横山城を包囲した。浅井軍を
野戦へ誘い出すためである。
 一ヶ月後の6月27日、織田軍の援軍として徳川家康が浅井の援軍として
朝倉景健が到着した。28日未明、浅井軍は朝倉軍と合流し、
姉川の北側に陣を張った。この情報を入手した信長もすかさず姉川の南側に布陣した。
28日午前6時、先端が開かれました。
 織田軍の相手は浅井軍、徳川軍の相手は朝倉軍になった。徳川軍は数に勝る
朝倉軍に押される。家康は少ない兵力から別働隊を組織し、側面を突かせ、
朝倉軍は総崩れとなった。一方、織田軍は浅井軍の猛攻を受け、
13段の構えのうち、11段まで破られました。おそらくのちに
天下に号令する立場になる信長がそこまでぼろ負けする理由に多少の自惚れが
あったと考えます。
 東は盟友の家康がいるから平気だし、北は盟友だった浅井家が守っているから
平気であり、もう西の小大名をつぶすだけで上洛ができたのです。
多少の油断・自惚れはしょうがないですが。やっぱり信長はまだ同盟してまもない
浅井家の信用しきっていたのでしょう。信長らしくなく。そして結局浅井家は
朝倉家を選んでしまったのです。
 しかし、救援にきた横山城監視軍が左翼から、徳川軍の援護に回っていた
稲葉一鉄軍が右翼から攻撃をかけ、浅井軍は敗走をよきなくされたのです。
 合戦は午後2時まで約8時間に及びました。川原は死体であふれ、姉川は血に染まったといいます。

永蓮寺初二

   
姉川の戦い(1570年6月)
軍勢:織田勢力=織田信長20000〜23000・徳川家康5000〜6000
浅井勢力=浅井長政5000〜8000・朝倉景健8000〜15000
(兵数に関しては資料により諸説あり。尚、資料によっては
浅井・朝倉の対等同盟を否定し、浅井長政の浅井・朝倉
    連合軍における地位を朝倉一門衆(すなわち朝倉景健)
より下位とする物もあるが、便宜上、浅井勢力とした。)
参戦:織田方=織田信長・徳川家康・坂井政尚・池田恒興
武将 木下藤吉郎(豊臣秀吉)・柴田勝家・森可成
佐久間信盛・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄
酒井忠次・小笠原長忠・石川数正・榊原康政
本多忠勝・蜂屋頼隆・明智光秀・前田利家
浅井方=浅井長政・朝倉景健・新庄直頼・阿閉貞秀
浅井政澄・磯野員昌・前波新八郎・朝倉景紀
真柄直隆・真柄直澄・遠藤直経・魚住次郎左衛門
戦の:A説(これまでの定説)
流れ T 浅井・朝倉軍の猛攻で織田・徳川軍敗走寸前に陥る。
    U 徳川軍の榊原康政、朝倉軍の側面をつく。
V 朝倉軍乱れ、敗走を始める。
W 稲葉一鉄隊、浅井軍の側面へ廻り攻撃。
X 氏家ト全・安藤守就隊、戦線に合流。
    Y 浅井軍、敗走を始め、織田軍の勝利に終わる。
B説
T 織田・徳川軍と浅井・朝倉軍、白兵戦を展開する。
U 数に勝る織田・徳川軍、終始浅井・朝倉軍を圧倒。
V 浅井・朝倉軍、敗走を始め、織田・徳川軍の勝利に終わる。
A説とB説を見比べると、結果は同じでも明らかに流れが違う。
A説はどうやら、江戸時代の創作であるらしい。というのは、
幕藩体制の下では権現様(家康)を美化しなければ
  ならなかったためである。要するに、家康のおかげで、
信長が勝利を得た、ということを強調したかったのである。
その他、太閤記では、浅井方の磯野員昌の猛攻を
  秀吉が撃退し、苦境に立たされた織田軍を救ったという
エピソードで主人公・秀吉を美化している。
B説が真説である裏づけとして、遮断物のない平地での
遭遇戦であるから、兵力に勝る織田・徳川軍が有利である
ことは自明の理であるということと「年代記抄節」に
「(浅井・朝倉軍が)横山へ後巻として両手に取り出し、
押し寄せ、即時に両手一同に切り崩し、信長は大利を
  得候う」 という記録から、織田・徳川軍が浅井・朝倉軍を
敗走させるのにそれほど時間がかからなかったと考えられる
ことが挙げられる。

独眼龍 政宗

・姉川の合戦に参加した家臣
松平真乗・松平忠正・小栗忠政・酒井忠次・大河内正綱・飯島正勝・
坂部正家・内藤正成・同正貞・本多広孝・大久保忠佐・加藤政次・
成瀬一斎・桜井勝次・佐橋吉久・岡元次・渡辺守綱・渡辺真綱・渡辺茂・
服部保英・紅林吉治・青山長利・松平信一・榊原康政・榊原忠政・
野々山元政・菅沼定政・安藤直次・山本正義・竹中久作・松平忠次・
奥平貞能・内藤信成・太田吉勝・本多忠勝・本多康重・本多正重・
本多重信・大久保忠隣・大久保忠豊・大久保忠益・大久保忠直・大久保康忠・
大久保忠政・都筑秀綱・天野忠次・成瀬正義・安部忠政・
森川氏俊等(寛永諸家系図伝)

松平景忠・酒井重忠・水野忠重・西郷清員・鳥居元忠・本多忠次・本多正信・
近藤秀用・平岩親吉・小笠原長忠・松平康忠・小笠原広重・高木広正・
向坂吉政・高力清長・杉浦親次・坂部正家・青木一重・竹本正次・
天野康景・小笠原定信等(寛政重修諸家譜)

戦死者、土屋重信・青木貞親・伊奈忠基・天野家次・
天野家次の子三十朗・松平伊忠の家老島田右衛門佐等
 

関東管領 真田昌幸

姉川の合戦は織田方が勝ちましたが徳川の活躍がなかったら
勝てなかったでしょう。
数少ない浅井におしまくられる織田。
それにたいして3倍ほどの朝倉軍相手に勝ってしまう徳川。
もし徳川がいなければ織田は確実に負けていたでしょう


井伊直政

この戦いは,浅井が寝返りし、かつ延暦寺も
協力し、信長にとっては兵も分散するので
大軍も出せない、武田軍が接近、一向一揆が
暴れるなどごちゃごちゃ状態で、まけてもおかしくない合戦で
援軍徳川の活躍で、朝倉軍を討ちこれを見た浅井長政も敗走し
勝ちに至ったが援軍の榊原康政が朝倉の側面で戦ったので
三河武士のすごさも浅井,朝倉に思わせた。

主な参戦武将

織田軍 織田信長、酒井政尚、森可成、木下秀吉、柴田勝家 23000人
徳川軍 徳川家康、酒井忠次、榊原康政、小笠原長忠、本多忠勝、松平家忠 6000人
浅井軍 浅井長政、磯野員昌
朝倉軍 朝倉景健、朝倉景紀、真柄直隆、前波吉継





投稿本当にありがとうございました。


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