日本史を動かしてきたもの
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斯波義麿
マクロな視点で中世以降の本朝の歴史を通観すれば、
三つの心理特性が顕著であると気づくことができる。
一つは下克上史観、さらに一つは源平交代史観、
そうして判官贔屓史観である。われわれは、
これらの心理傾向で歴史を眺め、事象、
人物を評価する傾向にある。
こうした”歴史観”を形成した所以は、
実際の歴史そのものの中に右の三大傾向に
対応する”事実”が枚挙にいとまなく存在するからである。
言い換えれば我々の歴史観とは我々の先祖の歩んできた道、
岐路のつどの選択肢の積み重ねの総合結果であると申しても
過言ではないであろう。
さらに換言すれば、われわれの歴史を動かしてきたのは、
この三大傾向に対応する、三大行動傾向とも呼ぶべき
行動パターンが存在するといっても許されるであろう。
下克上を例にとれば天皇家に対する藤原摂関家、
鎌倉将軍家に対する北条得宗家、
北条得宗家に対する内管領、長崎氏、室町以降の
細川氏における三好氏、三好氏における松永氏、
斯波氏における甲斐氏、朝倉氏、織田氏、土岐氏における
斉藤氏等々著名な例を抜粋する事だけですら
煩雑なほどである。さらにごく最近では、
現代政治ですら佐藤栄作と子飼いの田中角栄、
田中角栄と竹下登、竹下登と小沢一郎の関係も
一種の下克上であり、小沢一郎は傀儡たる
海部俊樹首相(当時)を指して「神輿は軽くてパーがいい」と
揚言してはばからなかったほどの
確信犯的”下克上実践家”であった。
源平交代史観は、北条得宗家の全盛時ですら
”一朝事ある時は、北条(平氏)の次は足利氏(源氏)”の輿望が
天下に存在しており、足利高氏(尊氏)は、
その(源平交代史観の)使命感ゆえに後醍醐天皇側に
寝返って倒幕に踏み切ったのであった。
また、織田信長が自らを平氏と名乗ったのは
足利(源氏)に取って代わる意思の表明であったし、あるいは、
徳川家康の源氏姓の表明もさらに信長の次を考えての
深謀遠慮があったとも推測される。
このように源平交代説は、中世以降の武家社会において
時にイデオロギー的な色彩すら帯びた
”革命の推進力”足りえた歴史観であった。
判官贔屓史観に対応する歴史エピソードは数え切れない。
われわれは、太古より”敗者”に同情し、愛し、
感情移入し続けてきた”歴史”を有している。
今日ですら、”歴史IF”と称し、あの時こうしていればとか、
ここでかのものが裏切らなければとかいった具合に
過去の戦争や出来事に思い入れして時に
わが事のように嘆き、切歯扼腕する向きのいかに多いことか、
當サイトをご覧になれば明らかであろう。
この”敗者への思い入れ”の理由は
那辺に存在するのであろうか。それは、
我々の歴史が(敗者側から見た時)あまりにも理不尽であり、
不条理に満ちており、没道義極まりないエピソードの
積み重ねであった事を証明しているのである。
朝廷や藤原氏は自らの無残な仕打ちの祟りを恐れるのあまり、
ときに”敗者”や”被害者”を”神”にまつり、
赦しを請い続けて来たのであった。
こうして”日本史”を鳥瞰すれば、われわれは、
盛者必滅(源平交代史観)の法則性を感じながら、
理不尽で残酷な現実のパワーバランスの栄枯盛衰を
同情心をもって(判官贔屓)眺めてきた事がわかる。また、
下克上的な名目上の上司と実際の権力者の二重構造は
ウォルフレンやアメリカのリヴィジョニストの
分析で指摘されるように今日ですら、
我々の社会の一大特性をなしている事は明らかである。
ゆえに本論の結語はいたって平凡な言葉で
締めくくらざるを得ない。
”歴史”は現在に生きている、と。
投稿本当にありがとうございました。