谷山市史「豊臣秀頼の薩摩落ち」
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投稿者不詳

第二編 谷山の歴史

 

九、豊臣秀頼の薩摩落

 

 谷山市下福元町木之下部落に
豊臣秀頼の墓と称するものがある。多宝塔で、
塔身は円筒形、高さおよそ二メートル
円筒の直径六十二センチメートルである。

 西藩野史には「秀頼の臣堀内大学助藤原右京亮竊に
隅州加治木に来り密に入に語て曰、
聞く秀頼君偽て大坂城に死し亡命して薩陳の間に匿と、
故に来りてこれを求む。或説云時に
薩州谷山に来り居る者あり、背高くして色白し、
顕貴の相あり、邑人疑て秀頼ならんといふ。
子孫あり農民たり、此ところ称して木下門という。」
と書いて秀頼の亡命説をとりあげている。
有馬温泉の会話と題して「寛陽院様有馬御湯治に
御越被遊候節、色紙六左衛門も御供にて候処、
老人参候て六左衛門へ相尋申候は
私には敵ある者にて御座候、秀頼公は
薩州へ御下被成候由承居申候、
いつ頃御死去被成候やと無拠懇望に相尋申候、
六左衛門被申候は、秀頼公は
於大坂御生害被成と承及候、薩州には御下り無之由、
返答にて候と也、六左衛門殿右の老人へ、
御方はいかなる御人いつれに御座候やと
相尋被申候へ共、只故ある者にて
御座候と計為申出にて、何たる者とも不相知候由」、
これは薩藩奮伝集補遺に載っている。亡命否定説である。

 「薩摩風土記」上中下二巻のうち下巻にも
秀頼のことを載せてあるが、「異本薩摩風土記全」には
絵図を二か所へ入れて、次のように記してある。

 谷山の町はつれに木下角という処あり、
赤松の大木の下に五輪の塔あり、
両面に公家束帯の像あり、こけむして
誰の石碑というをしらす。大坂の人々此辺に
住浪人姿にて世を送るとみへるなり。
俗にいいつたへには、秀頼たいてう
中町をあはれあるくとゆふ殿より仰渡されハ此御人に
一切無札のなきよふにとの御触にて
人々其なまよいを児侯ヘハにけるとこ去れ
秀頼公なるへしと云。今に谷山よいくらゐハ
武家にもらぬやうに、にけかくれするなり、
あヘハとちうにても無心をゆいかけこまるといふ事なり。
上町の地蔵堂は秀頼公乳母子老母と
あとをとむらひ堂立朝夕回向を仕たる地蔵とも云なり。
上町右地蔵堂の裏に池の権現とゆふ石墓あり、
八ケ年跡より京絵図人のこつをほり出す、
是も大坂人の品者といふ。又下町の上方問屋に
長門守跡系図存といふ木村権兵衛と云人有リ、是木村、
下町納屋通上に山口氏の八百屋あり真田の末と云う、
紋六文銭を付すなり。同所仲丁にかつさや有なり、
秀頼の書物ありという。後藤、
真田の跡武家にて大侍にあり、
紋所も其儘されしといづれを本非といふをしられつ、
入にききてもわからす、これハはるか末に
召出し扶持せしものとみへるなり。」と。絵図の一は
千地蔵堂を画き、
説明は大坂秀頼の古碑上町地蔵町の角に地蔵堂あり、
秀頼石碑祭と俗にいう。
いずれこの地に人々おち下り、
身をひそめていたものと思われ、谷山にも古石碑がある。
絵図の二は大坂人の塚なりというと説明して、
現在の称秀頼墓によく似て描かれ、
塚の本に松の大木がかかれている。
「谿山諸紀」には次の記事がある。

 福元村木ノ下門名頭屋敷内

一塚木松壱本目通壱丈三尺廻り

 右塚木ハ天保七申六月大風ニテ
倒木二相成諸人申受取除トカヤ、
右松ハ往昔木下藤吉持来候ト云々

  右松下二古キ墓アリ。道清禅定門ト銘アリ。

 右同村福留門名頭屋敷内

一、古塔 高サ八尺五寸午方仏像子方衣冠之像彫刻有
之文字不相知霜崩アリ。壱基

右ノ塚木松ヨリ壱町半程東方二地ノ神ト申伝へ
霜月一度ツツ祭来由緒不詳候処
寛政十二年庚申六月御記録奉行本田孫九郎殿
御廻勤之節塔下深サ壱丈程
御改有之候得共誌無之勿論墳墓之躰
二茂不相見得為何訳モ不相分侯
故弥以申伝候通地之神ト得心待自然由緒相尋侯
人モ有之候ハバ右之趣相答可申旨可申置与被仰渡置侯

下福元村慈眼寺寺内

一、正八幡宮 一社

 棉躰幣帛。但由緒相知不申候
下福元村之内木之下門江牢人罷居相果候
以後百姓共ヨリ建立篤仕出申伝候

 以上であるが、正八幡宮は「三国名勝図絵」を見ると
社殿も鳥居もりっぱなものである。
現在は石祠だけになっている。
谷山南麓伊集院家は目代という役目で、
鹿児島から秀頼監視のため派遣した
格の高い家柄という理由で
秀頼の谷山亡命を肯定しており、
当時の伊集院家の屋敷は現在の南麓長野家で、
広い屋敷をめぐらした石垣は
秀頼在世のころのままであるとのこと。
又下福元古屋敷は秀頼が薩摩落ちの際、
障子川口より舟で古屋敷に上陸し、ここに暫時住まい、
のち、木之下へ移つたと伝え、「天下山」という地名もあり、
昔より木之下姓も五、六軒あると伝えている。
谷山を訪れる観光客は
秀頼の墓をたずねることにしているようである。
昭和十年ごろ、谷山を訪れた紀行文の
大家吉田絃二郎は谷山を訪れ、秀煩の墓だけに参り、
記念に伊地知栄二村長、有山長太郎父子、
佐多峯太郎校長とともに撮影し、
「我が旅の記」の著書の中に、
秀頼の谷山亡命を肯定して、名文を一節載せている。
その時までは石塔に
衣冠の像が刻まれてあると記している。

 谷山市の隣村吹上町中原の旧家宇都家に伝わる
木盃ならびに茶碗は、谷山木之下に住んだと伝えられる
豊臣秀頼が用いられたもののようであるといわれ、
その品の由来書が谷山に寄せられた。ここに紹介する。

 木下並茶碗ノ由来

相伝フ予カ八代ノ遠祖善兵衛君(天和貞享元禄人頃)
常二遊猟ヲ事トシ近郷ノ山野到ラサル処無シト、
当時谷山郷福元村木下門某ナル者、
尤獣猟ヲ好ム?会合シテ遂二交際親密ナリ、
一日木下門二宿ス、某告テ云フ、
家二珍蔵スル木杯及茶碗アリ、
嘗テ老祖母ノ言二此ハ之レ上国ヨリ高貴ノ人難ヲ遁レ
此里二隠栖シ給ヒ朝夕此器ヲ用ヒラレタリト、
又当時此家ノ祖先ナル者親道シ、
時トシテハ此茅屋二来臨セラレタリト、
或ハ云フ拝受セシ物ナリト、
又云フ高貴ノ人二供シタルニ由リ
忽緒二付ス可ラス啻二秘スルノミ、落ノ一覧二備ヘン、
之ヲ見レバ真二稀世ノ逸品ナラシ、
某請フニ譲与センコトヲ以テス、
某マタ意トセス輙ク与ヘタリト云フ、
前述ノ由来アルニ由リ毎歳孟蘭盆会ニハ、
遠祖ノ霊前二供スル此器ヲ用フルヲ例トセリ、
明治初年神祭ドナリ、他器ヲ備ルニ至レリ、
木杯ハ家ノ重大ナル祝日二供用スルノミ、
世俗二伝へ云フ、豊臣秋頼公難ヲ大阪二遁レ、
同所二隠遁シ給へルニヨリ今二木ノ下門ノ名称アリト、
恐クハ高貴ノ人トハ公ナランカ、
今ヤ筥裡二蔵メテ後昆二伝ルニ至ル、
然リト雖モ其ノ由来ヲ詳記セサレバ或ハ後
世瓦礫視スルアラン乎、故ニロ碑二伝フル所ヲ叙テ後
世二伝フル!
コト如此

  明治三庚午歳七月吉辰善兵衛君八世ノ孫為儀謹識

 附記木杯ハ亘リ五寸ニシテ
高サ一寸六分中二五七ノ桐二唐草ノ金絵アリ
中二浪ト千鳥ノ模様アリ酒ヲ盛ルトキハ
宛然浪動キ千鳥飛ブガ如シ裏二瓢箪ノ模様アリ
塗ハ朱ノ土黒キ色ナリ、茶碗ハ壺茶碗ナリ
響焼キニシテ延べ金ニテ牧絵等アリ、
又世俗二伝へ云フ野猪百頭ヲ銃斃スル者ハ
仏二供養ヲ築クトノコトアル故二遠祖ハ
九十九頭ヲ獲テ猪獵ヲ止メラレシト今現二伝フル所ノ
和銃ハ名工田代半助ノ製造即チ之レナリ。

 昭和三十六年五月十六日

 吹上町中原 為儀翁嫡孫宇都為秀提供





投稿本当にありがとうございました。
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