本能寺三劫の碁について
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織田信忠

天正十年六月一日、本能寺の変前夜、織田信長は本能寺で来訪していた
公家衆が帰った後、寂光寺本因坊の僧侶・日海(後の初代本因坊・算砂)と
鹿塩利賢という当時きっての打ち手の一局を観戦した。
熱戦は深夜九つ(午前零時)にまで及んだ。結局、珍しい三劫となって
引き分けとなった。日海はめったに出ない三劫に不思議がりながら
本能寺を去ったという。
後日、この棋譜は「本能寺三劫の碁」として残された。
囲碁界では三劫は不吉なものとされるようになった。
その理由は言うまでもない。

これだけ書いておきながら失礼なんですが、僕は以前、
学校の囲碁・将棋同好会部長であったにもかかわらず、
三劫の意味を知りません。調べてみますが、詳しい事を知ってる方が
いたら教えてください。





投稿本当にありがとうございました。