三段撃ち
戻る

藤原秀衡殿からの質問

織田信長の鉄砲三段撃ちは本当なのでしょうか?というより
三千の鉄砲で一万五千の騎馬隊を倒せますか?
織田軍は横一列になり鉄砲を撃ったといいます。
しかし一万五千が横一列になって攻めるわけでもないし、そこが疑問です。
だれか教えてください。その時の距離はどのぐらいだったのか(両軍の)


北畠顕家

 火縄銃の飛距離は約100メートルです。
この間に三段撃ちで何回鉄砲が撃てるか?というのを
昔テレビでやっていました。答えは3回です。つまり、
馬が100メートル走っているあいだに玉込めして撃つことが
できなかったのです。早合(火薬や玉がはじめから固めてあるもの)を
使用して6回です。では信長軍はどうやって武田軍を倒したのか?
 まず考えられる事は、1000丁の鉄砲の一斉射撃に
馬が驚いたということです。創造がしにくいですが
1000丁もの鉄砲がなるとすごい音がします。
その音に驚いた馬が乗り手を落としたというのが考えられます。
 あと鉄砲と共に使われた馬防柵の効果も大きかったと思います。
 馬防柵は川沿いに沿ってはられていました。
馬が飛ぼうにも川底は深くなっていた為
(ちょうどこの時期は梅雨であったため、もしくは掘っていたか?)飛べない。
川の向こう岸から馬防柵が飛べない高さになっていたと思います。
 というものの、実際馬防柵は3つのうち2つまで破られていますし、
たまたま雨が合戦当日にやんだため鉄砲を使用しただけで、
実際は4万5千の軍勢で包み込もうとしたかもしれません。


藤原秀衡殿からの質問

私は実際に三、四万の軍勢が織田、徳川にあることを知りませんでした。
鉄砲三千だけで立ち向かったのかと・・・・・・・。
そこで、鉄砲が無くても四万の軍勢なら
十分一万五千は潰せると思うんですが。
または雨が降った時の為に用意したんでしょうか?
それとも後詰め?または一応用意したかとか?それほど強かったんですか?
勝頼になったばかりだし・・・。
あの時雨が降ったら信長はどうしたんでしょう?
また、勝頼ではなく信玄だったらどうしてたのでしょう?
皆さんの考えを聞きたいです。


北畠顕家

歴史を振り返ってみると必ず兵が多いほうが勝つとは限りません。
桶狭間の戦いがいい例でしょう。
武田の騎馬隊・三河武士この二つは兵の強さとしてはトップクラスでしょう。
しかし信長の兵は金で雇われているため、
兵の補充には困らないが土地を持ってないぶん
主君に対する忠誠がなく危なくなったら逃げる。
そのため尾張兵は最弱とされています。
雨になったときの備えはやはり馬防柵です。
馬の足を止めることに注意したと思います。
勝頼は軍事面で言うと信玄よりはうえです。
ただ親類衆をまとめきれていなかったことが、勝頼の弱点でしょう。

ゆーとぴあイアウエオ企画

長篠の戦いでは殆ど鉄砲は使用されていません。
なぜならば戦いの前日は大雨が降っており地がぬかるんでいました。
撃てたとしても1〜2発撃てたらいい方だと思います。
これは江戸時代の小説家が織田軍が鉄砲3000丁持っていた。
と言う記述を大げさに書いたものだそうです。
ならいかがして戦ったのか?
最近の研究によると武田軍と織田軍は1週間位にらみ合いを続けており・・・。
この間に織田軍は自分の陣地に陣城という簡易的な城を造ったそうです。
因みに織田軍の数は4万だけどその為の人夫は5,6千人いたそうです。
因みに城は3倍の兵に耐えれる法則があるので
実質11万対1万5千の戦いと思っていいでしょう。
長篠城には3000の兵に取り囲まれていました。
戦闘が始まったと同時に信長は酒井隊に極秘に
長篠城周辺にいる武田軍を奇襲します。
これで完全勝利ができたわけです。
武田軍の死者1万もあろうかというのに
織田軍の死者が100前後だというのは驚異的です。
因みにもし地がぬかるんでいたとしても
鉄砲は大げさに使われなかったでしょう・・・・・。
なぜならたいていの場合鉄砲は主に足軽が使う武器。
足軽を分かり易く言えば臨時のアルバイトみたいなものです。
そんな人ぱ゛かりに活躍させていたら正規の兵士,
武士達はどう思うでしょうね?
活躍の場を与えられなかったと不満を漏らすでしょう。
この戦いはそんなことまで考えられていたのです。
すごすぎますね。

佐々内蔵助成政

長篠合戦の鉄砲三段撃ちについてですが、自分も少し考えてみました。
まずは鉄砲の数です。
最近の研究により鉄砲の数が三千ではなく一千だったという説が出てきましたが。
これではどうもこころもとない気がします。
長篠合戦時の織田軍には、当時の明智家の兵種割合を当てはめると
(織田勢)三万×13.5%=約四千丁の鉄砲があったと思われます、
これに徳川勢が有している一千丁弱が加わると約五千、
少な目に見てもやはり四千丁ぐらいはあったのではないでしょうか。
それだけの数を持ちながら武田勢前方に一千丁しか配置しないというのは、
やはり問題がある気がします。
次に、有名な武田勢の騎馬隊ですが、合戦当時武田勢が有していた騎馬武者は
多く見積もっても三千騎、一説によれば五百騎もいなかったそうです。
しかも、よく映画などで演出として行われる
「騎乗した武者が一団となって敵に突撃する」様な事はまずありませんでした。
というより騎馬武者とは身分の高い武士であって、
騎馬だけが固まって動くということはないのです。
騎馬が足軽と離れるということは、後年における歩兵の援護が無い戦車、
モビルスーツの援護の無いサラミス級巡洋艦のようなものです
(わからない人にはごめんなさい)
つまり武田勢は騎乗突撃をしたのではなく、騎乗突撃をする集団のように見せた、
と言うところではないでしょうか。
あと、戦力比の問題です
織田・徳川連合軍三万五千に対して武田勢一万五千で
連合軍が楽勝じゃないかという声も聞こえますが考えてみて下さい、
あの精強で知られる越後兵とほぼ同等に渡り合う人達ですよ
越後兵一人に対し尾張兵五人で同等とすると、
武田兵一人で尾張勢4.5人くらいでつりあうのではないで
しょうか。とすると(武田勢)一万五千×4.5人で
約六万七千てとこではないでしょうか、とすると
対する連合軍は織田三万と徳川八千×3人(三河勢一人は尾張勢3人に等しい)で
五万四千で連合軍のやや不利という形勢になります。
当時の足軽達は実際の戦局よりも噂を大きく受け止めたので
(ほとんどの兵士は農村育ちで迷信などをよく気にした)
信長は、それ(武田勢の騎乗突撃という幻想)を打ち砕く為に
馬防柵と鉄砲を使って兵達の不安を取り除きたかったのではないでしょうか。
とすると鉄砲という心の防壁は多ければ多い方が有利、
やはり鉄砲は三千丁あったのではないでしょうか、そして騎乗突撃という
心理的防壁を鉄砲という大音量発生器(命中率は極めて悪い)
によって壊された武田勢は恐怖心に負け、崩れたのだと推測できます。
自分の考えはこんなところです。(非常に読みにくい文で申し訳ありません)


藤原秀衡

鉄砲隊を三段に構えたというのはどうやら信憑性が極めて薄いようですね。
それに交代する時、暴発する危険性も考えればそっちより
柵を三段に構えたという方がよっぽど納得しますねぇ。
真偽のほどはどうなんでしょう・・・





投稿本当にありがとうございました。