豊臣秀吉

watanabe

  豊臣秀吉(1536〜1598) 初め木下藤吉郎。
尾張国愛知郡中村の百姓の家に生まれる。
初め今川家に仕えたが辞して、1554年、織田家に仕える。
信長からは猿とあだ名される。金ヶ崎の退り口では
自ら殿軍を願い出て、信長を浅井・朝倉軍の攻撃から
守るなど、家臣の中でも群を抜いた活躍を示す。1582年、
西国攻略中、信長が明智光秀の謀反に
本能寺で果てたことを知ると、1日に30キロ〜40キロという
驚異的な速さで京へ戻った。「中国大返し」というのが
これである。山崎の戦いで明智軍を討ち破り、
信長の後継者という目で見られるようになる。
1583年には敵対する柴田勝家を滅ぼし、同年大坂城を築く。
翌年1584年は徳川家康と小牧長久手で争う。
自軍の将を次々に破られるなど苦戦するが、
やがて和議を結び、後に家康を臣従させる。そして1590年、
秀吉は己が天下に従わぬ北条氏の居城、小田原城を攻める。
長き包囲にわたり、北条は降伏し滅んだ。
本能寺の変からわずか8年で天下統一を成し遂げたのである。
1592年、秀吉は突如、朝鮮に向けて軍を興す(文禄の役)。
一旦講和したものの、4年後に再び
朝鮮に出兵した(慶長の役)。
秀吉も朝鮮に向かう予定だったが、
1593年に子の秀頼が生まれたため、日本にとどまる。
1598年、日本軍がいまだ朝鮮にいる中、
秀吉は伏見城で没した(享年63)。
豊臣政権は秀吉個人のものだったため、
秀吉が死ぬと崩れるのは当然であった。





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