山中鹿之介

山名宗全

  「願はくは、我に七難八苦を与え給へ」
 鹿之介は月に向かって主家・尼子氏の再興を誓った。
その日から鹿之介の苦難の道が始まった。
 天文十四年(1545)八月十五日、鹿之介は山中満幸の
次男として新宮谷山中屋敷で生れる。父の満幸は
若くして早世し、亀井秀綱の養子となったが、
跡目を相続した兄が病弱のため廃嫡となり、実家に帰り
山中家を継いだ。山中家は尼子家中では中老の格であった。
 鹿之介は義久付きの小姓として、武人としての頭角を
めきめきとあらわしていった。品川大膳との
一騎討ちは有名である。しかし、昔日の勢いを
完全に失っていた尼子氏は、永禄九年(1566)毛利方の
兵糧攻めにより月山富田城を最期の場所として滅びてしまう。
尼子の遺臣達は浪人となって諸国に散り散りとなり、
いまだ二十二歳であった鹿之介も野に下った。
 鹿之介は毛利に捕らわれた義久奪還に動くが、
義久に尼子再興の意志がないことを知り失意のうちに上洛。
そこで、新宮党国久の孫・勝久と出会う。
鹿之介はこの勝久を尼子家再興の盟主に仰ぎ、
永禄十二年(1569)決起する。尼子勝久を担ぎ出し、
出雲に侵攻した鹿之介ら尼子軍は三千に膨れ上がった。
そしてわずか一月で月山富田城に迫る勢いとなった。
しかし、月山富田城攻略に手間取っている間に、
毛利勢の援軍が到着し苦戦を余儀なくされる。
 結局、尼子軍は大敗し、勝久・鹿之介ら主従は
出雲から命からがら撤退する。諦めない鹿之介は
中国進出を目論む信長を頼り、尼子家再興を再び目指す。
信長は秀吉を総大将として播州上月城を落とした後、
尼子勝久を城将に任じ鹿之介以下尼子勢に固めさせた。
 しかし翌年、毛利・宇喜多三万の大軍に包囲された上月城は
孤立無援となってしまう。別所長治の
三木城を攻めていた秀吉は上月城を救おうするが、
信長の命令は「捨て置け」であった。
 上月城は落城。勝久は自害。尼子家再興は潰えたが、
それでも鹿之介は死を選ばずに降伏の道を選んだ。
七難八苦の誓いが鹿之介をそうさせた。
 鹿之介は毛利輝元の本陣へ護送される途中で斬殺された。





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