大谷吉継

山名宗全

 
大谷吉継 1559〜1600
(おおたに よしつぐ)

近江伊香郡出身。
大谷吉房の子。母は東殿で後に北政所に仕えた。

この武将、豊臣秀吉に百万の軍勢を
指揮させてみたいと言わせた武将である。

通称紀之介、刑部少輔を称す。
秀吉の近習から次第に頭角を現し、
ついに越前敦賀五万石の城主となる。

友達の少なかった石田三成の親友であり、
負けるとわかっていた関ヶ原の合戦にも出陣。

しかし、脇坂安治らの裏切りで、奮戦の後自刃する。
大谷隊も全滅し、家臣の湯浅五助が吉継の首を
地中深く埋めたという。

その後、湯浅五助は首を埋めるところを東軍の将、
藤堂仁右衛門に見られてしまうが、
自分の首と引き換えに口止めを懇願する。

仁右衛門は家康から「湯浅五助であれば、
吉継の首の行方を知っていただろう。
吉継の首は手に入れたのか。」と問われるが、
仁右衛門は、「たしかに知って
いる。知っているが五助との約束なので、死んでも言えません。
強いて教えろとおっしゃるのであれば、
頂いた恩賞は返上いたします。」と言い張り、
とうとう吉継の首が埋められている場所を明かさなかった。

家康はこの仁右衛門の言葉を聞いて、「討たれた者も、
討った者も、天晴れなやつ。」と褒め、それ以後、
吉継の首級を探させることはしなかったという。


墓は現在関ヶ原町大字宮上にある。
隣には湯浅五助の墓がある。

吉継はハンセン病を患っていたようだが、
三成はまったく気にしなかった。
有名な話としては、茶の席で吉継が点てた茶の中に
吉継の鼻水が入った。
他の武将は全員飲む振りをしていたが三成だけは
飲み干したという。





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