九鬼嘉隆

山名宗全

 
九鬼嘉隆 1542〜1600
(くき よしたか)
志摩国田城城主九鬼定隆の次男。

兄浄隆のあとを継いだ甥澄隆とともに
志摩七島衆と戦うが敗れ、朝熊山へ逃れる。

この時に織田信長に通じたとされ、
その助けによって志摩の海上権を握ってい
た『志摩地頭十三人衆』と戦い、これを制する。

その後、信長の海将として長島一揆討滅戦の際に
安宅船十四隻を率いて活躍、
また石山本願寺との第二次木津川海戦において
毛利水軍をも粉砕する活躍を見せた。この時、
かの有名な大鉄甲船によって勝利を得たとされる。

これらの功により、伊勢志摩両国内に
三万五千石を領する大名となり、
鳥羽にその本拠を据える。

信長没後は豊臣秀吉に仕え、九州征伐や小田原攻め、
文禄の役に海軍の将として活躍したが、
慶長の役の際に渡鮮軍の人選から外れたことを機に
隠退する。

家督は子の守隆に譲った。


関ヶ原の際は西軍に加担、
東軍についた守隆の留守中に城を奪い、
ここに父子間での戦いが起こる。
しかし西軍があっという間に敗れたため、
嘉隆は城を脱出し自国内に潜伏した。
守隆は徳川家康に父の助命を嘆願し許される。
喜んだ守隆は、これを報せるべく急使を
父の元へと飛ばすが、これとほんのわずかの差で、
嘉隆は九鬼家の先を案じた家臣
豊田五郎右衛門が独断で発した使者の言に従い、
遺書を残して自刃してしまう。
急使は伊勢国明星でこの嘉隆の首と出会い、
驚いた守隆は豊田を斬首したものの、
一足違いで間に合わなかった。

嘉隆五十九歳。九鬼氏はこの後守隆が
水軍を引き継いだが、1633年摂津三田ならびに
丹波綾部へ転封される。
ここに九鬼氏は陸へ上がり、
長く親しんできた海との別れを告げた。





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