仙石秀久

山名宗全

 
仙石 秀久 1552〜1614
(せんごく ひでひさ)

織田信長に見出され、秀吉の家臣となる。

1574年(天正二年)近江野洲郡に1000石を与えられ、
1580年(同八年)には淡路洲本城主5万石、
秀吉の四国征伐の際には
秀吉軍の総大将羽柴秀長と共に数々の城を攻略し、
讃岐10万石を拝領した。

その後、九州征伐に出陣したが
戸次川の戦いにおいて功を焦るあまり、
長宗我部元親や十河存保らの反対も聞かず
無理な攻撃を開始し、島津の『釣り野伏せ』に
引っかかってしまい、存保や元親の子信親らを
戦死させることとなる。また秀久自身は戦目付という
立場にありながら真っ先に逃げた為、
秀吉の怒りを買い、所領を没収され高野山に
謹慎の身となった。

上記の理由により、秀久は長宗我部ファンや
十河ファンにはすこぶる評判が悪い(らしい)。

小田原の役の時に徳川家康を頼って参陣、
甲冑に鈴をつけて走り回るというパフォーマンスにより
秀吉の許しを得、信濃小諸城5万石となり、
名誉を回復した。

1600年の関ヶ原の戦いにおいては、
徳川秀忠率いる中山道軍に加わったが、
上田城攻撃を進言し、秀忠もこれに乗ってしまったので
結果的に関ヶ原の本戦に
間に合わなかった原因を作った。

ちなみに有名な盗賊石川五右衛門を捕まえたのは
秀久だとも言われる。





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