織田信雄

山名宗全

 
織田 信雄 1558〜1630
(おだ のぶかつ)

幼名茶筅。信長の伊勢攻略後、北畠家に入る。
本能寺の変後、弟の信孝と対立し、
羽柴秀吉と同盟を組んでこれを討つ。
しかし、後に
秀吉とも対立し徳川家康と連合しするが講和。
天正18年(1590)に秀吉より東海への
転封を命じられるが、これを拒否し失脚。
大坂の陣後に家康より大和五万石を与えられ、
天童藩として存続。

この武将、戦国時代の愚者の
十指に数えられるかもしれない。
信長に無断で伊賀に兵を入れ、
伊賀忍者の十八番であるゲリラ戦術に苦しめられた挙句、
奇襲などによって多くの武将を失う。
安土城を対した理由も無く焼いてしまう。
小政・長久手の戦いで同盟者家康に無断で単独講和。
秀吉の転封命令を拒否し下野烏山に流される。などなど。
ここまで時代を読めないというか、
阿呆を世に知らしめた人物は
日本史の中でもあまりいないかも。

しかしこんな信雄にも一芸があったとか。
ずばり能。この腕前は公家も絶賛するほどだったとか。
いつのことか、家臣に天下を取ったらどうするかと
聞かれた時、『京の公家どもに能でも見せてやるか』と
言ったとか。
信長の息子より能役者の子として生まれたほうが
幸せだったかもしれない。





投稿本当にありがとうございました。

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