毛受勝照

山名宗全

 
毛受勝照 ????〜1583
(めんじょう かつてる)

尾張国生まれの柴田勝家の近侍で通称は勝助。
12歳にして柴田勝家の小姓となり、
後小姓頭に任ぜられ1万石を食む。


賤ヶ岳の戦いで勝家の軍が瓦解し逃げる際、
勝家は討死も覚悟したが家照は城への退却を進言する。
自らは勝家の馬印「金の御弊」を掲げ、
時間稼ぎの為勝家の身代わりとなって
敵陣へ一戦を挑もうとした。
兄・茂左衛門も共に進もうとするのを勝照は
「兄弟揃って死しては母の不孝」と制する。
しかし茂左衛門は「ここで弟を見捨てて帰れば
母に不孝」と譲らない。
結局、兄弟は兵200を率い揃って討って出ることとなった。

兵が少ないので身軽に行動できる。
思う存分秀吉勢を引きつけ、力戦しながら
十分時間を稼いだが、見渡せばすでに周りには
もう兄茂左衛門以外の兵は残っていなかった。
さすがに戦い疲れた二人は「これだけ
敵を引きつけておけばもうよかろう」と、
残っていたわずかな酒を酌み交わした後、
従容として自刃したという。

またこんな話も残っている。
伊勢長島の戦いに於いて、戦のさなか
勝家の馬印が奪われた。
勝家はこれに憤慨し死を覚悟で突入して
奪い返そうとするが諫められ、その間に荘介が
敵陣へ突入、馬印を奪回した。
勝家は大いに喜び荘介に「勝」の字を与え
勝介勝照とした。
あるいは 「勝」と「家」の字の両方を与え
勝介家照とも伝わる。





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