豊臣秀次
山名宗全
豊臣秀次 1568〜1595
(とよとみ ひでつぐ)
母は秀吉の姉。秀吉の甥にあたる。
最初は秀吉の後継者として期待され
関白にまで登りつめるが、後継ぎの秀吉が
誕生すると、身の不安から乱行を繰り返し、
ついに『殺生関白』とまで言われた。
後に秀吉の命にて高野山へ謹慎させられ、
程なく同地で切腹する。
この人物、一般には愚人とされている。
小政・長久手の合戦にて、大規模な奇襲
(実際行動は家康側に筒抜けだったので
奇襲といえるかどうか)の大将を務めるが、
格が違う家康に大敗する。
秀吉の養子となり、近江・尾張・伊勢で
百三十万石の大封を受け、内大臣から関白に昇進し
聚楽第に住み始めた頃、秀吉に子秀頼が生まれると、
相当ショックだったらしく、ぐれてしまった。
鉄砲の稽古と称して農民を撃ち殺し、
不義の噂がある側室が妊娠すると腹を割って
胎児の顔を確かめる。
殺生禁断の比叡山に登って平然と狩りを行う、
『関白殿千人切り』と称される辻斬りをすると、
こういった逸話は数え上げればきりがない。
ただし、これらは後世の作り話の可能性も高いので
注意が必要だ。
さすがの秀吉も秀頼誕生の翌日に、
『日本を五分してその四を秀次、残りを秀頼に』
という案を出し、秀次も承諾する。
その後、秀次は大名達に金を貸し、
それによって味方を増やそうとするが、
秀吉にはもう跡を継がせるつもりはなかったらしい。
蒲生氏郷死去の際に提出された目録に不正があり、
それをかばった秀次は、ついに追放されてしまう。
そのまま大人しくしていれば、
そのまま無事に余生を送ることが出来たかもしれないが、
朝廷に復権を図るため銀五千枚を献上する。
これには秀吉も無視できず、
ついに秀次に切腹処分が下る。
これらの出来事はもちろん秀次が悪いのであるが、
秀次にしてみれば、やることすべてが悪いほうに
流れてしまうということには耐え切れず、
自暴自棄状態に陥ってしまったのかもしれない。
投稿本当にありがとうございました。
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