足利義昭

最上義光

  室町幕府15代将軍。義晴の子。初め興福寺一乗院門跡で覚慶といった。
1586織田信長により入京、将軍となる。
後信長と不和になり、信長に将軍職を追われた。

奥村助右衛門

彼が室町幕府15代将軍であることは広く知られているが、
その晩年は意外と知られていないようなので取り上げてみた。
 義昭は13代将軍義輝暗殺事件の際には
興福寺の僧・覚慶として世にあったが、三好方に命を狙われる。
しかし和田惟政や細川藤孝らの機転と助力で危地を切り抜けて還俗、
信長に擁立されて将軍となった。
 最初の頃は良かったのだが次第に信長と対立、
やがて反信長派の旗頭となるのである。彼は元々策謀好きであったらしく、
全国の有力大名に義昭への加担を呼びかける文書を乱発し、
1573年に武田氏や朝倉氏、本願寺らと結んで立ち上がるが敗れ、
一旦和議に持ち込み再挙兵するも、
これまた敗れてついには京を追い出されるのである。
 こののち義昭は紀州を経て毛利家へと移る。1576年5月、
毛利氏が義昭擁立を決め本願寺と結び、
信長と二度大阪湾木津川河口で対決するが、
緒戦は凱歌を上げ得たが二度目の木津川海戦で大敗する。
この(第二次)木津川海戦の際に織田方で活躍したのが、
かの船大将・九鬼嘉隆の乗る鉄甲船である。
 そこへもっとも彼にとって「不運」が訪れる。
相手の信長が死んだのである。
 普通ならば喜ぶべき事であろうが、この時は情勢がそうではなかった。
毛利家は秀吉と交戦対峙中で上洛の余裕など更々なく、
その秀吉がいわゆる「中国大返し」によって、
あっという間に明智光秀を討ち滅ぼしたからである。
これにより秀吉は短期間に着々とその足場を固め、
賤ヶ岳の勝利の後はもはや天下人同然であった。
毛利領の備後・鞆の浦にいた義昭は
どんな気持ちで秀吉を見ていたのであろうか。
義昭は1587年、秀吉の要請により京へ戻り、
信長に反抗して追い出された槇島城を宛われて一万石を給された。

斎藤道三

室町幕府最後(15代)の将軍。65年松永久秀が
彼の兄将軍義輝を殺した時、彼も久秀に幽閉されたが、
細川藤孝に救われ近江に走り、全国の大名に京都回復を依頼。
68年信長に奉じられ入京、将軍となったが、
信長の隆盛とともに疎隔した。73年一時和したが成功せず、
剃髪し昌山道休と称し、毛利その他各地の大名を頼って転々とした。
87年秀吉の保護を受けて1万石を給せられた。

吉良篤次郎

征夷大将軍と言えば現の内閣総理大臣。
その子供と言えば特別待遇される。
だけど足利義昭の場合は違った。
当時足利幕府は、応仁の乱により、自らの権力
を手放し、第一責任者の足利義政は乱中に
死亡し、日野富子の願いだった足利義向の
征夷大将軍任命はかなったが、義政の後、
彼も死亡。失意の中、富子も世を去る。
乱終結後、荒れ果てた京で将軍後継者問題
が発生し、機内の諸大名を巻き込むことになる。
幕府の支配力が失われた為、各地で大名どうし、
領地問題で争うようになり、世は下剋上になっていった。
そんな中義昭は、十二代将軍義晴の第二子として生まれた。
親子と共に京を出入りし、
義晴が病死すると、兄である義輝が将軍になった。
が、義輝は暗殺され、義昭は越前朝倉家の
保護を受けた。越前の雪の中、義昭は
鼻水を垂らしながら援護を求める手紙を
一生懸命書いた。努力が実ったのか、やっと
織田信長が助けてやると言ってくれた。
信長の上洛軍と共に入京し、第十五代将軍に
なれた義昭は、早速悪行を開始。領地をよこせ、
金銭をよこせ、馬をよこせ、などなど、在所で
遊びふけていると、三好三人衆に襲われ、
なんとか逃げ延びて信長に助けを求めた。
信長は急いで入京すると、三好三人衆を撃退し、
二条御所を造った。義昭が喜んでいると、
信長は義昭を脅迫して、岐阜に戻った。
激怒した義昭は本願寺、毛利氏、長曾我部氏、
雑賀一向一揆衆、武田家などに
信長討伐令を出し、信長包囲網を創り上げた。
しかし、武田信玄は他界し、朝倉、浅井は滅び、
本願寺は抑えられ、毛利は苦戦し、
義昭も槙島城で挙兵するが敗れ、京を
追われるはめになる。挙兵失敗後、
毛利氏に身を寄せるが、信長は死に、
新たに天下人になった秀吉も養子にしてくれと
頼みに来たが、義昭は首を縦にふらなっかた。
彼のプライドが許さなかったのだろう。
義昭は後に発病し、1598年に他界した。
彼は一生懸命に努力をしたが、時代の波に
逆らうことができず、ついに倒れた。
五年後には彼の本流の時代がやってきたと言うのに。





投稿本当にありがとうございました。

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