松永久秀

山名宗全

 

松永 久秀 1510〜1577

(まつなが ひさひで)


「この男は、常人には出来ないことを三つもやりとげた。
主家の三好を滅ぼし、
将軍を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き払った」
これは、信長が久秀を評した言葉である。

生まれは不明で、阿波で生まれたとも、
山城西岡生まれの商人だったとも言われる。
1529年、20歳の時、細川家家老三好長慶に
祐筆として仕える。
長慶の腹心として腕を振るい、主人の執権栄達に伴い、
自分も京都守護職に任じられる。
また、勝手に人頭税・通行税などを次々と課し、
徴税金を私財として蓄え、
朝廷や公家の有力者にばらまき、
政治的地位の確立をはかっていた。
そして、堺に早くから目をつけ、町の顔役と仲良くなり、
堺を掌握する。

久秀は、一流の文化人でもあった。
千利休の師、武野紹鴎の弟子であり、
『九十九茄子の茶入』や『平蜘蛛の釜』など所持していた。

1565年、時の将軍足利義輝を二条御所に攻め殺害する。
筒井順慶との戦いで奈良の大仏殿を焼く。
(これは偶然という説もある。)

1577年、信長に謀叛を起こし、
その居城である信貴山城を攻められ、
いよいよ死ぬ少し前、空に赤い星が現れたという。
都の人々は、この星を眺め、神仏の怒りの凶兆と考え、
久秀の滅亡を予告する“弾正星”と噂した。
いよいよ落城の時、家臣の一人が
今日はちょうど大仏を焼き払った日
(十月十日)と同じ日だ。これはきっと仏罰に違いない、
というと、久秀はあの星が現れたのは、偶然に過ぎない。
星というものは、自然の理に従っているだけなのだ、
と言ったといわれる。
久秀は戦国一の現実主義者であるといえるかもしれない。

このすぐ後、久秀は自分の首に
名物茶器『平蜘蛛の釜』を結び付け、
火薬を点じて城ごと自爆した。

自分の白髪首を見せたくない、
愛玩する茶器を人手に渡したくないという、
久秀の信長に対する意地であった。





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