細野藤敦

山名宗全

 

細野藤敦    1541〜1603

壱岐守。別名九朗右衛門守清。北勢長野工藤氏の
一族で細野藤光の子。
南北朝時代、長野氏は南朝に属していたが、
途中で北朝に転じ、
南朝方の伊勢国司北畠氏と衝突を繰り返す。
十五代当主藤定の時和解、北畠具教の子である藤教を
養嗣子として家督を継がせ北畠の一門となる。

藤敦の父藤光は十四代当主稙藤の弟にあたり、
筆頭家老であった。

そしてかの有名な織田信長による伊勢侵攻が行われる。
北勢の有力武家であり北畠氏とも婚姻関係である
神戸氏が信長の子信孝を養嗣子として迎え入れ、
軍門に下ったことにより、藤敦の主君である長野氏も
その進退を迫られた。

藤敦は北畠の一門としてでなく伊勢の国人として
織田家と対立することを決意、
藤敦を中心に長野氏は徹底抗戦する。
しかし、そんな藤敦を当主長野藤教は異心ありと疑った為、
藤敦は藤教を追放する。
そして長野一門協議の上、信長の弟信包を後継者とし、
織田家に降りる。
しかし、信包が伊勢を離れた隙に藤敦は長野城を急襲、
奪回する。
今度は滝川一益の子八麿を
藤敦の養嗣子とすることで和解。
だが、信長に降伏することを潔しとせず、抵抗を続け、
ついに逃亡。

豊臣の世になってからは、伏見城松の丸守将となり、
秀吉側室の松の丸(京極高次の娘)の家司となった。





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