蒲生賢秀
濱野意忠
天文3年(1534)〜天正12(1584) 没年51歳
ご存知、蒲生氏郷の父親である。
義理堅さと無欲の猛将として名を馳せ、その血は息子へと受け継がれた。
近江の守護・佐々木(六角)義賢、入道承禎親子に仕え、
日野城主を務めていた。
永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛の途中、
佐々木氏に協力を求めた。しかし、近畿一帯の
支配権を持っていた三好氏に通じていた為にこれを拒否。
将軍・義昭を奉じての義軍の為、南近江の豪族が続々と味方に付き、
信長の兵力は5万程度に膨れ上がっていた。
この怒涛の進撃に佐々木親子は逃げ去り、日野城は柴田勝家、
蜂屋頼隆、佐々成政らが攻め込んだ。
賢秀は「我らは佐々木氏の被官である。父・定秀以来
家老職を務めてきた家柄である。降伏はせん。守り抜くぞ。」と、
ばかりに奮戦。
800人程度の城兵の先頭に立って弓を手に信長軍を苦しめた。
信長軍の兵士達は誰からともなく「あれが俵藤太の裔よ。見よ、
あれが稀代の弓勢か。」と
感嘆の声が聞こえた。
信長は、この義理堅い頑固一徹の賢秀を見て困った挙句、一計を案じた。
賢秀の妹婿・伊勢の神戸友盛を呼んだ。
友盛を呼んだのはそれだけではない。信長はすでに三男の信孝を
友盛の養子にする約束を結んでいたのだ。
友盛の説得により、ようやく賢秀は開城し信長に仕える様になった。
降伏後、賢秀は嫡男・氏郷(当時はまだ鶴千代丸)を
人質として連れて信長の陣中に入った。信長は鶴千代丸を一目見て
「この者は只者ではない。我が婿にしよう。」と約束したと言う。
時は流れて・・・。
天正10年本能寺の変。
当時、賢秀は安土城の留守居役となっていた。氏郷は日野城にいる。
凶報を聞いて、城内は蜂の巣を突付いた様な騒ぎになったが、
賢秀は落ち着き払って
「安土城は天下の名城である。者共、騒ぐな!」と一喝して騒ぎを静めた。
女子供を日野城に移す様に命じると、戦の準備に取り掛かった。
信長夫人・生駒殿が「城に火を付け、金銀財宝を持ってお逃げなされ。」と
言ったが、賢秀は「城も財宝も明智に渡るのなら、それも天命である。
この期に及んで天下の名城に火を付け、
あまつさえ財宝を持って逃げたのでは、
この蒲生賢秀が嘲笑われる。」と、きっぱりと断った。
その後、配下の者に城を任せて日野城への道中の護衛として移動した。
日野城では氏郷が1,500騎で明智軍の襲来に備え、明智側の
再三の降伏勧告にも
「面を見るのも汚らわしい。」と、顔さえ見せなかったと言う。
まさに、「この親にしてこの子あり。」の天晴れな血統である。
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