島津家久

武田太郎義信

  生没年:1547年〜1587年

1547年薩摩の大名、島津貴久の四男として生まれる。
中務大輔と称す。兄に義久、義弘などの有名な武将がいたため、
その存在は薄かったが、島津家の中で一番の軍師だった。
その軍師ぶりを発揮したのは、1584年の沖田畷の戦い。
龍造寺隆信が有馬家へ攻め込んできた。そこで
有馬家は島津家に援軍を求めた。島津家は家久に
3000の部隊を預けて送り込んだ。有馬晴信はその数に愕然としたが、
家久は勝つつもりでいた。そこで、家久は沖田畷の地形を利用した
戦いを演じた。数では龍造寺軍のほうが勝っていたが
見事に龍造寺軍を破り、当主の隆信まで討ち取った。
この戦いは家久の軍略ぶりを発揮したものとなった。
1587年、豊臣家が九州平定を行った時、島津家久は
豊臣秀長軍を見事に迎撃したが、島津家は豊臣に降伏した。
その後、秀長と家久は会見を行ったが、
直後、体調を崩しそのまま他界。享年41歳。死因は不明。
毒殺か病死であったと言う・・・





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