北条幻庵
北条武蔵守
北条家五代に仕えた数少ない人物で
伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の子である。生没年には
諸説がありはっきりしないが、「北条五代記」では天正17年(1589)に
97歳で没したとあり、逆算すると明応2年(1493)うまれとなる。
これが通説であるが、ほかの史料では
永正年間初頭(1504〜1510頃)の誕生とも記されている。
幼名を菊寿丸といい母は栖徳寺殿という。菊寿丸と名乗っていた頃に
箱根権現に入寺し、その後近江三井寺で修行を積み
大永4年(1524)に出家した。やがて箱根権現別当40世を継いでいる。
法号を「長綱」といい「ちょうこう」と読む。
これには「長綱」を「ながつな」という俗名(実名)と解して
俗体のまま別当職を継いだとする説もある。
さて幻庵は天文5年(1536)までは箱根権現別当職を務めてきたが
しばらくしてこの職を辞している。そして還俗せずに
北条家の運営に携わっていく。当初は法号「長綱」で行動していたが、
やがて「幻庵宗哲」の法号を名乗る。
この法号は臨済宗大徳寺系の法号で
北条早雲の法号「早雲庵宗瑞」も同系である。
「北条氏所領役帳」によると幻庵の知行は5000貫を超えており
一族の長老的存在であったのは言うまでもない。
幻庵は相模中郡及び武蔵小机の領域支配を任されていたが、
弘治年間(1555〜1557)頃に後見をしていた氏堯(氏綱の子)と
三郎(幻庵の長子)に継承した。しかし永禄12年(1569)までに
長男三郎、次男氏信、三男長順が相次いで死去し、
これにともなって養子にしていた三郎(氏康の子)も間もなく
上杉謙信の養子に出された。すなわちこの人物こそ後に
御館の乱の核となる上杉景虎である。別論であるが上杉景虎と
北条氏秀は別人であるという見解が出ているが
別の投稿で言及させていただきたいと思う。
幻庵の子・3人の死亡と養子の三郎が別の養子になったしまったので、
幻庵は次男氏信の子・氏隆に相続させた。
文化人であった幻庵は氏康の娘である松院が吉良氏朝に嫁ぐ際に
輿入れの心得をつづった覚書、
いわゆる「幻庵おぼえがき」を与えている。また古今集の教養深く、
寺院を通じて京都との交流も深かった。
書物に見られる幻庵の記録は天正10年(1582)で途絶えており、
先に述べた天正17年没説は確証はない。
ただ北条五代100年を陰で支えてきたのは
幻庵であることに間違いはなかろう。
投稿本当にありがとうございました。
戻る