栗山利安

皇武

  1551年、播磨国姫路近郊の栗山村に生まれる。
幼名・善助。後に備後守を称する。
十五歳の時に、当時の小寺家姫路城代の黒田家に出仕する。
利発で思慮深い性分を黒田家嫡男・官兵衛孝高に気に入られて、
武士としての作法や礼儀などの薫陶を受ける。
十七歳で八十三石の扶持を賜って、一介の足軽から武士の地位を得る。
この時に主(その年に官兵衛が姫路城代となる)から、
新たに出仕して来た少年の面倒を任される。
彼の名は母里万助…後の太兵衛友信である。
二人の将来を嘱望した官兵衛により、義兄弟の契りを結ぶ事になる。
この二人組が黒田家の危機を幾度か救う事になった。
二十七歳の時に、官兵衛が説得に向かった荒木村重の籠もる有岡城にて
獄に繋がれた際には、いち早く城内に潜入して主君救出の手筈を整えて、
太兵衛と共に実行し成功させる。
四十九歳の時には、関ヶ原の戦い前夜に大坂屋敷に居た
黒田家の両内室(孝高・長政夫人)を、
当時の領国・豊前中津まで脱出させている。そのまま九州まで戻った直後に、
官兵衛・如水の挙兵に従う。善助利安は別働隊を率いて、
太兵衛友信は如水直衛部隊の将として活躍する。
黒田家での彼の地位は高まり、筆頭家老にまで昇りつめる。
主君・官兵衛は一門衆を除いて最も信頼できる人物として、
利安を重用した結果とも云える。その例も幾つかある。
黒田家の先鋒大将として名を上げた後藤又兵衛基次も、
一時期は同族の謀反で黒田家から追放された際に、
帰参の為の窓口として利安の配下に加えられた。また、
官兵衛如水が臨終を迎える際に後継者長政に譲るべき自身の甲冑を
家臣の利安に渡し、以後の息子の薫陶を頼みもする。
如水没後、彼も家老職を辞して息子・大膳利章に譲る。
六十三歳になり、生涯の相棒にして弟分の母里太兵衛が病死する。
病床の太兵衛は「今までおこがましくて言えなかったが、
無分別者の自分が一角の侍になれたのも、あなたのおかげ」と利安に言い、
二人して涙したという。
八十歳にして、彼の一生は幕を閉じようとしていた。
普段から温厚篤実で知られ、同僚・後輩と道端で会えば下馬して
礼を逸しないこの男が、死の床で口にしたうわ言は「戦の下知」であった。
それは「常在戦場」を心に秘めた彼の魂だったのだろう。
この日、三度うわ言をつぶやき、彼は眠るように息を引き取った。




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