前田玄以

上杉弾正少弼謙信

  美濃出身で、尾張小松原寺の住職であったと言われるが、
比叡山延暦寺に入り、その後
織田信長の嫡子・織田信忠に仕えた。
始め知行は7千石とされている。

天正10年、本能寺の変では信忠の命令で岐阜に逃れ、
信忠の子・三法師を擁して尾張清洲に移った。
翌11年、織田信雄から京都所司代に任ぜられるが、
のちに豊臣秀吉に仕え、同13(1585)年、 丹波亀山に5万石を領した。
同16(1588)年には、後陽成天皇の聚楽第行幸の際には、
秀吉の命で奉行を勤める。
キリシタンに対しては、最初は僧侶出身だったために
反発していたが、後に好意を示し、文禄2(1593)年には、
京都に宣教師が潜伏するのに便宜をはかり、
また、長男秀以、二男茂勝は受洗している。
慶長3(1598)年には秀吉死去の直前に定められた
5奉行の一員となり、公家、寺社を管轄。
同5年の関ヶ原の戦いに関しては、表面上は西軍に属したが、
石田三成挙兵を会津征伐に東下中の徳川家康に通報するなどしたために、
戦後は所領を安堵された。
慶長7年5月7日死去。
結構優秀な武将である。




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