黒田長政

皇武

   永禄十一年(1568)生まれ。
 播磨国姫路城主・黒田孝高の嫡男で、母は志方城主・櫛橋伊定の娘。
 幼名は松寿丸。(毛利元就にあやかったのか?)
 元服して吉兵衛。(父ちゃん官兵衛と兵衛つながり!)
 黒田家の家風なのか、父の教育方針なのか、
大変な競争意識を叩き込まれる。
 齢八歳から織田家の人質として近江・長浜城で過すが、
同居していた加藤清正・福島正則・石田三成ら年長者相手に臆した様子も無い。
 十三歳の時、織田信長に父の謀反を疑われて殺されかけるが、
羽柴秀吉の与力・竹中重治に一命を救われて、美濃・菩提山城に移る。
当時の状況で信長に逆らった半兵衛重治の恩は、
長政を彼に心酔させた事だろう。後年、竹中家に対する長政の姿勢は
身内同然と思われるほどに尋常ではなかった。
 十五歳で元服。父も荒木村重の織田家謀反で荒木側の幽閉から脱して、
羽柴秀吉の戦陣に親子揃い踏みとなる。長政は一揆勢を相手とした初陣で
功名するが、興奮冷め遣らぬか、
母の侍女(しかも長政の従姉妹だったらしい)に手を付けて孕ませる。
黒田姓も名乗れぬ庶子長男誕生だが、ほぼ同時期に母も懐妊し、
弟も生まれた。父は、息子の有り余る情熱を昇華させる為か、
強力な競争相手を彼に宛がった。その男の名は後藤又兵衛基次。
八歳年上の相手に、長政は負けじと戦働きに気合が入る。
 二十歳になった長政に、父がこう言った。
「俺はキリシタンになった。父はお前に
宣教師の教えを聞いてもらいたいのだが、強制はせんよ。」
(こう云う意味の言葉をその場に居た宣教師が、報告書に書いている。)
折りしも九州遠征の真っ最中で、やたらキリシタン武将がうろついている。
流行と思ったのか、長政キリシタンとなる。
 二十二歳で豊前国主・黒田家当主になる。
まだ早いですよと父に言うと、俺も二十二歳で当主になったと、
突っぱねられる。それではと、発生した一揆勢に張り切って
戦を仕掛けるも敗退。一生の不覚と坊主頭になる。
 二十四才から三十歳にかけて、朝鮮出兵で第三軍を率いる事に。
先陣を切った第一軍・第二軍の合間を縫う活躍を見せる。
 朝鮮半島に在陣中も、長政の競争意識は燃えに燃えた。
相手は太閤・秀吉が西国無双と賞した武将・立花宗茂。
年齢も一つ上で近いせいか、彼は気軽に鉄砲と弓矢の優劣を競おうと
相手に持ちかけた。お互いの得物を賭けて勝負するが、
結果は宗茂の弓の腕が勝って長政自慢の火縄銃を手放すはめに。
 これが後の災いになってはと、相手から得物の弓を贈られる。
ものの見事にいなされた彼だった。文禄の役の直後で、
名護屋城で留守を預かっていた福島正則が、出陣出来なかった腹いせに、
長政に因縁を付けてきた。これは秀吉の仲介で無事に済み、
兜の交換で仲直りする。この時に現在に残る
彼の騎馬画像にある一の谷兜を手に入れる。後に正則に贈った大水牛兜も、
黒田家の元に戻ってくる。慶長の役では、弟が玄界灘で溺死したり、
父が石田三成ら奉行衆と不和となり出家したりと、大事が立て続く。





投稿本当にありがとうございました。

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