浅井長政

斎藤道三

  戦国時代の武将。はじめ六角氏のために威を振るうことはできなかったが、
織田信長の妹を娶ってこれと結び、68年六角義賢を観音寺城に破って
近江の大半を領し大きな勢力となった。のち信長が天下を征服するに及んで
信長に背き、朝倉義景や本願寺と結んで姉川で戦った。
いったん和を結んだがふたたび朝倉・比叡山と盟約して信長に敵対し、
73年小谷城に攻められて自刃した。3人の娘はそれぞれ
秀吉側室淀君および京極高次・徳川秀忠の室となった。

山名宗全

浅井長政 1545〜1573
(あざい ながまさ)
久政の長子で備前守を称した北近江・小谷城主。

浅井氏は北近江守護京極氏に仕えていた。
1516年に居城小谷城を小谷山頂上付近に築く。

長政はその三代目に当たる。
最初は賢政を名乗るが、後に長政に改名。

信長の妹お市の方を妻に貰い受け
織田家との友好を深める。

その後、近江南部を支配していた六角氏を破り
勢力をのばす。

お市の方との仲は良く、二男三女の子どもが生まれる。

信長は畿内を平定すると、
越前に兵を送り朝倉氏を攻めようとする。
浅井と朝倉は長年に渡って同盟を結ぶ仲であった。
この信長の約束違反ともいえる朝倉攻めの時には
情誼を優先して朝倉軍に加担、
信長の背後から攻めかかり、
信長自身を窮地に追い込む。
これにより、織田家との中は最悪となる。

勇将の誉れ高く姉川合戦では奮戦するも
1573年に信長の再攻撃を受け、三人の娘と
お市の方を城外に落とした後、力尽きて自害。

この戦いで功績のあった秀吉が
浅井の旧領を支配することになった。

信長は長政と父の久政、そして朝倉義景の首を
薄濃(はくだみ)にして酒宴を開いたといわれる。
薄濃とはうるしでかため金箔をはったもので、つまり、
信長は金のドクロをながめながら
酒を飲み満足そうにしていた。
これが裏切り者に対する信長の態度の
代表的な例であると言える。





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