第九回(真田幸村)

  1567年・幸村、真田昌幸の二男として生まれる。
1582年・主家武田家の滅亡にともない真田氏存亡の危機に直面する。
その後、紆余曲折をへて上杉景勝に人質に出される。この時、
真田家は東海一の弓取りと名高い徳川家康に狙われる。
真田領に徳川勢が攻め込んできたのである。この時の徳川勢といえば
甲斐武田氏の勢力を吸収し、飛躍的に力を伸ばしていた。
天下人になるつつあった羽柴秀吉の軍勢も
徳川軍には手ひどい打撃を受けている。
しかし、昌幸はこの時領内でゲリラ戦を展開、
忍者を多く部下にしていた真田氏にとってこのような戦いは
得意中の得意であった。
昌幸率いる真田軍は徳川軍を散々に打ちのめしたのである。
この戦いで真田の有名は天下にとどろいたのである。
その後、幸村は今度は羽柴(豊臣)秀吉のもとに人質に出される。
このような、人質時代が幸村に乱世を生き抜く術を自然と与えた。
また、幸村の武将としての成長の陰には父(昌幸)の存在を
忘れてはならない。秀吉は昌幸を「表裏の比興者」とたとえた。
昌幸の事をくわせ者と蔑んだのである。
しかし、昌幸は小領主であるので戦国の世を生き抜くのに必死だったのである。
そんな父(昌幸)の姿を幸村は幼少の頃から目にしていたのである。
その後、秀吉のもと人質とは思えない厚遇を幸村は受けた。
ここで受けた秀吉への恩を幸村は生涯忘れることは無かったのである。
そして、天下人・秀吉が1598年に死去すると天下は再び乱れた。
豊臣政権の五大老の一人・徳川家康はこの機を逃すまいと天下を狙った。
ここに、天下に名高い関ヶ原の戦いが起こる。
真田家は父・昌幸と幸村が西軍(石田三成方)につき、
昌幸の長男・幸村の兄の信幸は西軍(徳川家康方)についた。
こうすれば、どちらが勝っても真田家は滅びることは無い。
戦国時代を生き抜いてきた真田氏の知恵だったのである。
真田氏の戦いは関ヶ原とは別の場所で行われた。
その場所とは信州・信濃の上田城である。
ご承知かもしれないが、徳川方・東軍は当初上杉景勝討伐を目標としていた。
その時、石田三成が徳川家康を豊臣政権から
排除しようと背後の大坂(大坂)で兵をあげたのである。
その時、東軍は東海道と中山道の二手に分かれて関ヶ原を目指した。
その時、東軍家康率いる本体は東海道を進軍しましたが、
家康の三男で徳川家の跡継ぎの徳川秀忠率いる3万8千の軍勢が
中山道を進軍してきました。しかも、その軍隊は家康が三河にいた頃からの
精鋭部隊で信州真田の幸村親子は降伏するしかないだろうというのが
大方の見解でした。真田軍数千VS徳川軍3万8千、
この勝負どう考えても徳川に分があった。しかし、
幸村親子は以前のようにゲリラ戦を展開。
秀忠は重臣達が真田に対して数千の兵を残し進軍すべきだという
意見を却下し真田を全軍で潰し、その後全軍で進軍しようとした。
重臣達は以前の戦いで真田の恐ろしさを知っていたのである。
秀忠は全軍をもって真田を潰そうとするが、幸村親子率いる真田軍は
一歩も引くことなく善戦。秀忠軍を信州に引きつけた。
結果論から見れば、東軍は勝利し秀忠軍に関係なく勝利したが、
西軍にしてみれば真田親子の戦いは予想以上の善戦であった。
関ヶ原の戦いの勝敗を決定ずけたのは小早川秀秋の裏切りではあるが
小早川秀秋の軍は1万5千。秀忠軍の半分にも満たない数である。
もしも、真田親子が秀忠軍を引きつけていなかったならば
西軍は小早川の裏切りに関係なく敗れ去っていただろう。
しかし、この戦いで幸村親子は紀州九度山に流刑。
本来ならば極刑は免れなかったが、徳川方についた幸村の兄・信幸の
助命嘆願により流刑になった。
しかし、徳川家康は2回も真田に邪魔されたのを快く思ってはおらず、
厳しい監視下のもとに置いた。
その後、幸村の父・昌幸は死に、九度山には幸村とその家族・その他では
十数人の家来だけが残った。
幸村も野に埋もれてしまうのではないかと思われた。
家康は江戸に幕府を開き、徳川政権下での政治体制を固めつつあった。
しかし、そんな家康にも気になることが二つあった。
一つは未だに天下の名城・大坂城に籠もる豊臣氏。
秀吉は死したものの大坂城にはその子秀頼、
そして秀吉の残した多量の金銀財宝が残っていたのである。
そしてもう一つは江戸時代にはいり有一徳川に対して
五分以上の戦いをしたことのある真田幸村の存在でした。
しかし、幸村は戦場を与えなければ活躍できないが秀頼は
戦争でなくては排除する事はできない。
家康は豊臣氏に宣戦布告する上で幸村に必要以上とも言われる監視をおいた。
それほど、家康は幸村を恐れていたのである。
しかし、幸村は家康の監視の目をかいくぐり大阪城に入城した。
豊臣氏においても徳川と戦闘経験のある幸村の存在はぜひ軍師として
迎え入れたかったのである。
さっそく、幸村は軍師として手腕を発揮しいくつもの制作を披露するが
そのほとんどは秀頼の母・淀の方により却下された。
しかし、幸村は豊臣氏を見捨てたりはしなかった。
それには少年時代に人質ながらも秀吉に受けた厚遇を
忘れていなかったのである。
戦術は幸村の反対を押しきり、籠城戦に決まった。幸村はこの時、
大坂城有一の弱点ともいえる南の外堀付近に「真田丸」という出城を築いた。
この真田丸が徳川軍を散々悩ますことになる。
1614年大坂冬の陣が起こると、家康は30万の軍勢で大阪城を包囲した。
そしてその主力を幸村の真田丸に向けたのである。
しかし、幸村は伊達の騎馬鉄砲隊、徳川親藩の
松平軍にたいしても手ひどい打撃を与えている。
家康は真田丸に手をやき大阪城に手が出せないでいたのである。
家康はここで本丸に大筒(大砲)を打ち込んだ。
この時代の大砲は精度も低く本丸に届く確率は低かった。
しかし、たった一つの弾丸が秀頼の母・淀の方の近くに打ち込まれた。
それが原因で徳川軍と豊臣軍は和議を結んだ。
この和議は家康にとっては偽りの和議で真田丸をはじめとする
大阪城の外堀を埋めてしまおうというものだった。
本当は内堀を残す約束であったが家康はかまわず内堀まで埋めてしまった。
このために大阪城は裸も同然となってしまった。
幸村は家康の策を見抜いていたが、どうすることもできなかった。
豊臣秀頼の重臣は早速内堀を修復にかかるが、
これが徳川に対する敵対行為だと言われ家康は再び豊臣氏に対して兵をあげた。
幸村は堀がない城ではいくら名城でも守りきることはできないと
自ら戦陣をきって出陣した。
度重なる突撃で幾度となく家康の本陣に幸村は切れ込んだ。
幸村率いる真田勢・約3千、対する家康の旗本数万である。
幸村は家康の旗本と戦うまでにいくつもの部隊を破り、
徳川軍の奥深くに切れ込んできたのである。
この時、家康は真田の紅に燃える赤備えに恐怖したといいます。
幸村の突撃で家康は何度も死を覚悟したそうで
遺書をしたためようとした経緯さえあるのです。
家康は数人の近臣と戦場を逃げ回ったといわれています。
しかし、さしもの真田軍も多勢の徳川軍の前にちりぢりになり
敗退しました。大坂夏の陣における最大の攻防は
この幸村軍の戦いだといわれています。
そして、幸村も戦場のすぐ近くで自害しました。
1615年、48歳の生涯でした。
しかし、真田の強さは「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と呼ばれ
現代にもその名を残しているのです。


今川国氏

真田幸村が何故いま人気なのか?
それは人生に不満をもつ人間たちがふえ
自分達にはできない無謀な戦いをした真田幸村をほこりにおもってるから
自分がひどいめにあっても徳川に反抗する人生
悲劇だ
だから真田十勇士という伝説な服部半蔵の忍者軍団に対抗した伝説をつくった
わたしは真田幸村は何もしてない
領地の人間に誇りのもつような事はなにもしてないとおもう
領民を徳川秀忠の戦いで戦わせた<日本の歴史より
いくら人数ふそくしてるとはいえ・・
足留めししかならばかったが・・
大坂の陣
突破はできたが陣の中の兵をあんまり殺してないとおもうし
あまり戦いには影響ないとおもう
真田十勇士の人間がいたとしたらその人間たちをほほめたい
これじゃ真田批判だ
いいところをいいますと
大きな威力の徳川に反抗しただけでもえらい!!!!

蒲生郷舎

真田昌幸の次男。兄は、真田信之。本名信繁。大阪の陣で大活躍。
真田丸の攻防戦で松平忠直、前田利常、井伊直孝らの隊に大損害を与えた。
夏の陣では、家康の旗本を蹴散らしあわやというところまで追い詰めた。
忠直の配下、西尾仁左衛門隊の者に首を討たれたという。
私は、家康に突撃をしたとき首をとったと信じている。幸村は、
父昌幸の智謀と、島津義弘の武勇を持った戦国時代最後の
最高の武将だと私は、思う。

若いけど真江田家長老

真田幸村の真の姿

真田幸村は、父・昌幸の戦法を応用して徳川家康をきりきり舞いさせた。
これこそ幸村の真の目的であり、豊臣についたのは、
妻が大谷継部の娘だったからにすぎない。幸村を美化しようとする
長野出身の小林計一郎は、幸村は、豊臣につき死ぬために言ったとしているが、
これは違うと思う。例えば、特攻隊も死ぬことを建前としていも
本音は納得していなかった。昌幸が2度も家康に勝っているのに、
家康が天下をとったことに対し、納得せず、
自分の実力を見せつけたかったとするのが、自然である。
そうすると、真田幸村の薩摩落ちを否定する根拠はなくなります。
学者たちは、計一郎の説をとっているが、根拠のないものである。




投稿本当にありがとうございました。

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