第八回(立花道雪)
関東管領 真田昌幸
立花宗茂の養父。
簡単に書きます。
忠義心のある方だと思います。
なぜなら島津の北上やりゅうぞうじの進行の中
弟のじょううんと筑後で大友を裏切らずに戦ったからです。
上杉景勝
戸次鑑連。大友宗麟の家臣。
若い頃雷に打たれ、半身不随となったが、
駕籠にのって戦場をめぐり、37戦無敗の伝説的活躍を見せた。
しかし、君主宗麟が、いろいろ良くない事(長いから略)をやっていため、
道雪の活躍をもってしても大友家の斜陽は止められなかった。
(道雪(と高橋招運)不在の戦で大友氏は大敗を喫してしまう)
bishop
戸次鑑連(立花道雪)は、若い頃雷に打たれ、その時に
稲妻の中の雷神に斬りつけたので、何とか一命をとりとめることが出来た、
との逸話があります。これが名のない武将でしたら「ウソつけ」と
言いたくなりますが、彼なら「ああ、なるほど」と思ってしまうところに、
その人物の大きさを感じてしまいます。
とにかく、彼は若い頃から歩行困難であったとされており、
コーエーの書籍にも、輿に乗って戦ったとあります。
しかしながら、我が郷土の歴史研究家 吉永正晴 氏によりますと、
歩行困難になったのは老年に入ってからではないか、との説を
打ち出しております。
すなわち、大友家 vs 秋月家の
「休松合戦(いずれ紹介したいと思いますが)」を記した
九州軍記によりますと、鑑連が七度も太刀打ちして
多くの武者の首を取ったとあります。七度も太刀打ちしての奮戦は
足が悪くては出来ないことですから、輿に乗るのは老境に
入ってからであろう、となる訳ですな。
さて、この合戦では鑑連は秋月軍勢から夜襲を受けて、
一度は持ちこたえるのですが、混乱した友軍が殺到して来た後に、
秋月軍勢から狙い打ちに攻撃されて、多くの一族が
討ち死にしてしまいます。
彼の軍歴には記録上の傷はありませんが、おそらく本人はこの戦を
勝ちとは思っていないだろうと思います。
この戦いによる秋月氏や筑前豪族への怨恨が、晩年になって
彼の判断力を狂わせてしまうようです。
自分だけが集中攻撃されたと思えば、怨恨だって残ります...。
さて、彼は確か宗像氏の娘を妻に迎え入れていたと、
思うのですが、大友家の斜陽時代に宗像氏の旧臣らが
反乱を起こした事などがあって、夫婦仲は今ひとつであったと
聞いています。大友家は斜陽だし、筑前国は非常に統治しにくいし、
おまけにアンチ大友だし、彼の晩年は大変だったろうと思います。
かつて吉岡宗歓(長増)が「秋月一族を生かしておいては
大友宗家に禍根を残す」と、誅殺しようと計画しましたが、
それが道雪に露見してしまい、「武士らしくない振る舞い」と怒り、
秋月一族に護衛をつけたという、彼の性格を表す逸話もあるようです。
彼は謀略嫌いで遊びを知らない、くそ真面目な地方の無骨な男という
感じではなかったろうかと私は思うのです。大友宗麟は大の
遊び好きでしたから、なかなか良いコンビではなかったのでしょうか。
信長の野望 Internet の武将データは、やや高すぎではないでしょうか。
道雪のコアなファンならば、数値が高すぎても不快に思うはずです。
もっとも、客観的に考えれば、あのような数値に
なるのかも知れませんけど。あとは顔のグラフィックですが、
確かに道雪の肖像画は残っていますが、個人的には
八字髭の武将風雲録のが好みですね。昔に戻して欲しいです。
上の投稿の修正と補足
立花道雪の正室は別にあり、宗像氏貞の妹を側室に迎えている、
というのが正確な事実です。彼女は松尾殿と呼ばれていました。
なお、宗像氏の旧臣の反乱は「小金原の戦い」です。
北条綱成
彼は、九州あるいは、全国を探してもいるかいないかの
猛虎に似た武将だと思います。なにしろ、足が不自由なのにかかわらず
前線に立って指揮したり自ら戦闘に加わるなどと、
夢にも思えないほどのことをやってのけています。
もし、彼が足を失わずにいたら、どんなに強い武将だったか
はっきりと証明されたと思います。
皇武
立花道雪とその戦術について
大友家の屋台骨として活躍した、立花道雪の戦い方についてです。
彼が輿に乗って部下を叱咤して、敵陣に突入すると云った戦法は
常套手段では無かったと云う点です。彼は戸次鑑連と名乗った若い頃
(と言っても壮年期)に、自家の軍団に鉄砲部隊を組織していました。
鉄砲の集中運用を編み出したとされる、織田信長の長篠の戦いから
遡る十五年前の事です。文献よれば、鉄砲の一斉射撃の後に突撃を行ったと
記述されているので、輿に乗った武将が白刃を振るったとされるイメージとは
かけ離れています。道雪自身も鉄砲を撃っていた様で、
輿に何丁か載せていたとされます。と云う事は、鉄砲の弱点にも
精通していた訳で、この点の改良についても怠ってはいない様です。
「早込」と呼ばれる弾丸+薬莢のようなものを開発し、
鉄砲の速射を可能にしています。その軍団を継承した立花宗茂が、
関ケ原合戦時に近江大津城を攻略した際、他家の鉄砲隊の三倍の
速射を行ったと、当時の記録にはあります。あと一点、
見逃せないものがあります。道雪が同じく輿に載せていたとされる長刀です。
彼の軍団には長刀ばかりを装備した武士達のみの部隊が有り、
しばしば合戦で活躍しています。ここからは推量となるのですが、
当時の戦国九州ではタイ捨流の剣術に見られる剣速重視の点から、
やや短めの刀が主流だったと思われます。白兵戦で敵味方入り混じる
乱戦ともなれば、長刀より短刀有利な筈です。しかし道雪は
長刀を選んでいるのです。後の立花藩には門外不出の剣術で
「影流」という流派があり、それは五尺を超えるような
長刀を振るう抜刀術なのです。先の鉄砲の件で弱点解消に務めた道雪ならば、
この点にも納得いける答えだったと思えます。
鉄砲部隊の速射。長刀部隊の活用。この二点に注目し、
立花道雪がどう戦ったを検証すれば、以下の通りでは無いかと想像します。
第一段階
野戦にて鉄砲部隊を前面に展開し、敵軍に対して一斉射撃。
射撃戦において敵を圧倒する。
第二段階
射撃戦による敵軍の壊乱に乗じ、長刀部隊で追撃し、戦果を拡大する。
この際、道雪自らが陣頭指揮を執る場合あり。
第三段階
敵勢力の領土を制圧後、鉄砲部隊や長刀部隊の戦闘に
不利に働く大型建造物(神社仏閣)を、完全に破却しておく。
大友家から度々離反した豪族達(主に筑前・豊前の国人)は、
この第三段階には、(全国八幡社の総本山・宇佐神宮さえも破壊した)
苦虫を噛む想いをしたでしょう。先祖伝来の神仏を泥まみれにする事など、
許されよう筈が無いと言うのが当時の常識だったでしょうから。
道雪は、自らが築いた戦術を有効に働かせる為に、
却って敵勢力に拭い切れない怨念を抱かせてしまったのかもしれません。
まあ、主君・宗麟は歓ぶかもしれませんが…。
投稿本当にありがとうございました。
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