第七回(立花宗茂)

関東管領 真田昌幸

  立花宗茂は高橋じょううん(漢字忘れた)の長男として生まれ
立花道雪の養子になる。
道雪とじょううんは兄弟である。
しかし長男を養子に出すなんてじょううんは凄い人物です。
あるとき秀吉は主立った家臣を集め家康の家臣本多忠勝と
この立花宗茂を皆の前に呼んだ。
そいてこう評した。忠勝は東の日本一の武将・宗茂は西の日本一の武将。
これで宗茂が凄い武将だったことが分かる。
時は流れて関ヶ原の合戦。
宗茂は西軍につき大津城攻めの大将となる。
だが関ヶ原の合戦は東軍の勝ちに終わる。
柳川13万石の大名の宗茂は浪人することになった。
ここで本多忠勝が救いの手を差し伸べた!!
このおかげで立花宗茂は柳川1万石に返り咲いた。
大名に戻ったからとっても最低ランクの1万石とは・・・・・・・
徳川はけちです(家康さんすいません)




1569年に生誕、幼名は千鶴丸。その後、10回ほど改名し宗茂と名のる。
(宗茂と名のったのは晩年である。)
実父の高橋紹運は島津の大軍を相手に度々戦い悩ませていた。
その後、立花道雪に養子として引き取られている。
当時、立花道雪は大友家3家老の一人として、
西大友とも呼ばれていた勇将である。立花道雪の勇猛ぶりは
敵味方とわず知られていた。
ある夕方、突如襲来した雷雨により道雪さえも落雷で危機に陥ったという。
しかし、道雪は自らの刀で落ちてきた雷をたたきつけると言う
前代未聞の行動に出た。
その後、家臣たちは道雪を雷神の化身としてたたえたそうである。
その道雪にも最大の悩みがあった。男子に恵まれなかったのである。
そんな時、盟友の高橋紹運の子宗茂を養子に迎え入れたのです。
道雪は宗茂を高く評価していたそうです。
主君の大友宗麟・義統親子が後継ぎの無い老将を哀れに思い自らの甥を養子に
与えようとしたそうですが断固として拒否。
あくまで、自分で後継ぎを決めると言い張ったそうです。
そんな頑固者の道雪に認められたのが宗茂なのです。
宗茂はその後、秀吉の手勢として九州征伐に参加。
宗茂は対人に優れていた人物であったようで誰からも好かれる人物であった。
そのため、秀吉に認められ13万2千午石の大名となっていた。
しかし、関ケ原の戦いで石田方に組したために柳川領は改易。
普通なら、今後は浪人になり諸国を渡り歩く事になる。
改易させられた武将はいくら優秀でも後々の火種として
幕府に目をつけられる原因となってしまうからだ。
だが、この後信じられないことが起こった。
家康の後を継ぎ2代将軍となった秀忠は宗茂の人柄を惜しみ
自ら旗本に加えたそうである。
旗本と言うのは戦において総大将の身辺を固める部隊である。
また、江戸城下に住まい将軍の身辺警護も大事な任でもある。
つまり、信頼がなによりも優先される部隊である。
その旗本に数年前までは敵方にいた大名を用いるとは
当時の人々にとって驚きであったであろう。
秀忠は家康の死後は家康以上の厳しい態度で大名たちに接した。
その秀忠をここまで心酔させるとは宗茂という人物はど
のような人物であったのか興味がわく限りである。
その後、大阪の陣の働きで旧柳川領に復帰している。
豊臣・徳川の2大政権下で宗茂ほど信頼された人物は
いないと言っても過言ではない。
立花氏は明治維新まで家を守りとおし
華族の伯爵家として名を残したそうである。



井伊直政

やはり西の宗茂といわれたくらいの名将だし、養父の道雪の婿、
また改易されながらもまた大名になるくらいの人望もある。
すごい。

吉備宗治

権謀術数渦巻く動乱期において なお誠実な生き方を貫いた宗茂は、
実父高橋紹雲と養父立花宗茂の、二人の才を受け継いだ西国一の勇将である
道雪没後、跡を継いだ宗茂は、立花城に拠り筑前に武威をふるう
九州制覇目前の島津勢十万余の軍勢が父紹運の岩屋城を抜き、
立花城に迫ると和戦両用の構えをみせ、秀吉の九州討伐軍の来援まで
巧みに時間を稼ぐ
秀吉軍到着後、撤退する島津勢を追尾、すさまじい追い討ちをかける。
その功により十三万石を得る
小田原攻めで全国諸大名が一堂に会した席では、
「東国に本多忠勝あり、鎮西に立花宗茂あり、ともに天下一双の勇士なり」
と秀吉に称賛をを浴びる
朝鮮出兵で勇名を馳せた後、関ヶ原では西軍に属す
西軍敗北により九州柳川へ落ちていく途中、実父の仇敵、
わずかの兵に守られた島津義弘と出くわした
父紹運の仇討ちの絶好の機会と勧める家臣に、宗茂は
「人の弱みにつけこむようなことは、武士のすることではない」
と島津と協力して九州へ下ったという
戦後、改易されたがその軍才と人物を惜しんだ徳川家から、
故地柳川十一万石の旧領に復される





投稿本当にありがとうございました。

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