第五回(真田昌幸)

関東管領 真田昌幸

  真田昌幸は真田幸隆の三男として生まれる。
彼は幼少のころから人質として信玄公のもとへ送られる。
小姓として信玄のそばにいたためあれだけの謀略が身についたんでしょう。
信玄公は昌幸の才能をいち早く評価し武田の名家武藤家を継がせ
武藤喜兵衛を名乗らせる。
信玄公が死に勝頼よりの代になる・・・
時は戦国1575年長篠の合戦この時昌幸も出陣していた。
時間が経つにつれ戦況は悪化していくばかり。
ついに兄二人も鉄砲にやられた。そしてここから昌幸の
卓越した才能が開花していくのである。
合戦に敗れた昌幸は勝頼ともはぐれ(旗本だった)単身居城にむかう。
武田家滅亡の時勝頼を居城に招こうとしたが
小山田のところへ勝頼は行ってしまった。
ここらへんはさすが忠義心が厚い真田昌幸。
武田が滅亡
織田に降伏するも本能寺の変が起きついに昌幸は独立し
その野望を達成しようとする。
しかし羽柴がすぐに明智を平定し昌幸の野望がついえる。
家康と秀吉が対立ここに第1次上田城の合戦がおこる。
ここで昌幸の才能が爆発する。
2000の兵で1万近いへいを撃退する。さすが昌幸!!!!!
家康が秀吉と和睦してこの戦いも終わる。
小田原征伐がありついに関ヶ原の合戦。
昌幸と幸村は西軍に信之は東軍につく。
昌幸は上田城に帰った。従う兵およそ三千。第2次上田城の合戦
ついに徳川秀忠率いる3万5千の兵と激突。
この時も上田城の迷路のような道を使い見事に守り切る。
しかし本軍同士の激突は東軍の勝ちに終わる。
昌幸はここでこう言った「真田も兵が500でも行けば・・・」
しかし昌幸と幸村は信之の頼みによりいのちを助けられ山に流される。
昌幸は死ぬ間際大坂の陣が起こることを予想し幸村に秘策を授けたと言う。

真田昌幸殿の補足

川中島4次戦役にも出征してます。(有名なやつ)
勝頼付き「ほぼ同年」近習で、家中内では少数派の親勝頼武将です。
ワシが知る限り他の有名どこは山本勘助ぐらいが親勝頼かな
兄貴2人は長男派「普通、当たり前か、世継ぎだから」。
よって、最後に上州に主君を招こうとした。
第二次上田合戦は秀忠は主力を投入していない。
だからあしらわれ、本気で掛かろうとして本多に止められてます。
前後の時間稼ぎにより、関ヶ原に間に合わなかった。
一応、長男と本多の長男(大阪夏で戦死)に開城交渉させた。
幸村に残した秘策は鈴鹿を塞き止め、畿内で謀略を行い、
東軍拠点を攻略・弱体化させ、浅野、前田ら畿内に近い譜代大名を
寝返らせることであった。
大阪夏の陣で幸村が最初に主張した戦略は、これが下敷きである。

蒲生郷舎

真田幸隆の三男として生まれる。長兄に信綱、次兄に昌輝、弟に信伊がいる!
幼名真田源五郎。最初武田家の名家武藤を相続し、武藤喜兵衛と名乗る。
天正二年に幸隆が死に、翌年の長篠の戦で信綱、昌輝が戦死。
その後真田家を継ぎ、真田昌幸と名乗る。
昌幸は、武藤喜兵衛のとき信元の側に仕え、曽根匠らと信玄の戦術をならった。
これが後々役に立ち、第一次上田城合戦では二千の兵で八千の徳川軍を
篭城して徳川軍に手痛いダメージを与え、追い返した。そして、
第二次上田城合戦では三千の兵で四万の徳川軍を破った。
大阪の陣で活躍した真田信繁(幸村)は、次男。江戸幕府が
無くなるまであった真田十万石の基礎を築いた真田信之は、長男。
昌幸は、まさに徳川キラーである。私は、昌幸を戦国一の
謀略家だと思っている!


ラン

石川数正のように強いものにつくでもなく
松永久秀のごとく目上の者をひたすら潰したがるでもなく
どのように主君を選んでいるのかよくわからない。
ただこの人物はプライドが高く土着意識が強かったのだろうと思います。
保身や出世よりも現在の領土の安堵がかれの目標にあったのだと思います。
だから勝手に自分の領土を取引に使おうとした
徳川家が許せなかったのでしょう。
関が原後はとにかく家康嫌いに磨きがかかったようです。





投稿本当にありがとうございました。

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