第四十四回(坂上田村麻呂)

島津家軍師

  坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)
758〜811年

桓武天皇が長岡京から平安京に移った
平安時代初期に登場した武人。
代々坂上家は武門の家柄で知られ、
田村麻呂の父も祖父も朝廷から大きな信頼を得ていた。
中央で近衛府の武官となり、順調に出世していく。
この頃、桓武天皇は東北の蝦夷討伐を目指して
度々兵を出陣させた。これは奈良時代の光仁天皇から続く
悲願であり、大和朝廷の壮大な野望だった。

第一次蝦夷討伐・宝亀5年 大伴駿河麻呂 軍勢3万 失敗。
第二次蝦夷討伐・宝亀11年 藤原小黒麻呂 軍勢数万 失敗。
第三次蝦夷討伐・延暦3年 紀古佐美 軍勢5万 失敗。

このように大和朝廷は蝦夷に対して何度も攻撃を仕掛けたが、
その度に負けていた。
敗因は朝廷軍を率いる将軍が生粋の武人ではなく、
貴族や官僚であったこと。大軍に頼った職務怠慢。
そして第三次蝦夷討伐で蝦夷軍を率いた
酋長アテルイの登場が、朝廷の野望を阻んでいた。

793年、桓武天皇は大伴弟麻呂を征夷大将軍に任命して
出陣させた。一説ではこの弟麻呂が初代の
征夷大将軍ではないかと言われている。
天皇は他に、坂上田村麻呂、百済王俊哲、多治比浜成、
巨勢野足の4人を副将軍として弟麻呂の補佐をさせた。
田村麻呂が一躍朝廷のヒーローとして現れるのは
この頃である。
弟麻呂率いる朝廷軍はアテルイ率いる蝦夷軍と戦い、
翌年の794年に戦勝を報告している。『類聚国史』によると、
田村麻呂は副将軍で中心的な役割を果たしたらしい。

796年、田村麻呂は陸奥守、鎮守将軍を兼任して
戦争を正面から担当する官職を全て合わせ、
翌年の797年に征夷大将軍となった。この時40歳だった。
延暦20年(801年)、田村麻呂は天皇から節刀を受けて
出陣した。2月に出陣した田村麻呂は、
9月には蝦夷の討伐成功を報告している。
彼がどのような方法でアテルイに打ち勝ったのかは
資料にないが、とにかく彼は大和朝廷の永年の夢を実現させ
た。その後いったん帰京して節刀を返し、確保した地域
(現在の岩手県奥州市)に胆沢城を築いた。

翌年の802年、蝦夷の軍事的指導者だったアテルイ、
仲間のモレは一族500人を連れて降伏した。
田村麻呂は彼らを許し、助命を願ったが、
朝廷は蛮族として彼らを処刑した。
その後岩手県盛岡市に志波城を築き、
804年には再び征夷大将軍として
更なる領土拡大の準備を始めたが、桓武天皇は近臣の
「人民が困っています」という忠告を聞き、
田村麻呂の出陣を取りやめた。
だが本来は臨時職である征夷大将軍の地位を
田村麻呂は身に帯び続けた。

桓武天皇崩御後、次の嵯峨天皇にも多大な信頼を受け、
平城上皇と藤原薬子が起こした「薬子の変」では、
上皇の西国行きを迅速な動きで阻止した。

811年、田村麻呂は54歳で亡くなった。
嵯峨天皇は悲しんで一日政務をとらず、
彼をたたえる漢詩を作った。
田村麻呂の遺骸には剣、弓、甲冑を着せ、
立ったまま埋葬された。死しても都の守護神とされたのである。

妻は三善清継の娘高子。子供には大野、広野、浄野、
正野、春子がいた。
春子は桓武天皇の妃として葛井親王を産み、
天皇崩御後は長宝寺を開いて一族の菩提寺とした。

大和朝廷の武力を具現化したような武将田村麻呂。
彼の登場がなければ、今日の大和民の繁栄は
なかったかもしれない。怒れば獣も逃げ、
笑えば赤子も甘えるとは、彼の人柄をうかがわせる。



投稿本当にありがとうございました。


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