第四十回(小笠原長時)

光源院義輝

   武田信玄により信州から追い出された勇将。バカ殿だったのか?
コーエーのゲームでは、瞬く間に消え行くザコ・キャラだ。
でも弱くないよ。

 信州 小笠原家。ここん家も遠祖は『新羅三郎』、立派な源氏だ。
武田家の祖 信義の兄(?)である加賀美遠光、その二男 長清に始まる。
あの源頼朝に父 遠光と共に従って信州に恩賞地を得た。
が、どうも信濃守護職とまではいかなかった感じ。
北条得宗家の力が強かった。
その後も一族総出で働きを示し、庶流は阿波守護職を獲得。
 鎌倉倒幕の際には新田義貞に従い、後で足利尊氏に乗り換えた。
そこでようやく信濃守護職を獲得したと思われる。
ここまで見ると、確かに名門なんだけど、飛び抜けて格式高い家とは感じない。
 ところが、それが大間違い。ただの古いだけ家とはあきらかに違ってた。
 始祖 長清以来、代々弓馬に優れた武人を輩出したという小笠原家。
その長い歳月の中で、卓越した弓馬術を『弓法』、『馬法』といった
“作法”にまで高めて『小笠原流兵法』を生んだ。
(詳細は小笠原流礼法のH.P http://www.ogasawararyu-reihou.gr.jp/を
御覧あれ)
信州では、いや全国からも、まさに“武家の鑑”としての尊敬を集めた。

 そんな武門の名家、その嫡流に永正16年〔1519〕長時は生まれた。
その華やかな家柄から、さぞかし美々しく勇ましい軍勢だったことと察せられる。
だが、「塩尻・勝弦(かつつる)峠」での敗けっぷりは ヒドイ。悪すぎる。
武田の軍勢を余りにも侮り過ぎた。
まともに戦っていさえすれば、こんな無様な いくさにならなかったのに。
その後も立ち直せず、坂を転げ落ちる様に“没落”していくだけだった。
そして天文19年〔1550〕、中信濃の居城 林城を放棄し、村上義清を頼った。
 じゃ、イイところなしか?
それについては『二木(ふたつぎ)家記』に記録が残ってるそうです。
(小笠原家重臣 二木豊後守重高の子である重吉が、
御家再興がかなって再び仕えてから記したというもの。)
 天文19年にあった武田の大敗「戸石崩れ」。
この機に乗じ、深志城(武田軍による林城破却後の新城)奪取を試みたが、
村上勢が勝手に陣払いし、小笠原軍1000は敵中に孤立した。
慌てふためいて退却した武田軍ではあったが、
それでも10000は残ってたというから、立て直しさえすれば迎撃も可能だ。
 深志城奪取は絶望的、それどころか小笠原軍は壊滅の憂き目に合う。
その窮地に際し、長時は全軍に下知した。
自分が先陣を切るから、諸士1人として追い抜いてはならんと。
華々しい、討死覚悟の一騎駆け。
名刀 千代鶴を抜き払った長時は、瞬く間に18騎を斬り伏せた。
そんな長時の勇姿に奮い立った小笠原軍は、
見る見るうちに首級300を討ち取り、武田勢を追い散らしたという。
 その後、二木の居城 中塔城に籠城。信玄からの投降の誘いもあったが、
「武田の家とは格が違う」とキッパリ言い放ち、撥ねつけたそうだ。
そりゃそうだ。出自が一緒でも、いくら強かろうとも、
単なる甲斐の田舎武者とは一緒にしちゃいけない。
(信州の田舎でもハッキリ違う理由は、
“小笠原流礼法のH.P ”をご覧頂きたい。
まぁ、この誇りを過剰に持ち続けたせいで、没落したわけですが。)
結局、半年に及ぶ籠城も実らず、旧領回復を一時断念して密かに落ちのびた。
 あとは畿内の三好筑前の食客となったが、信長の進出で三好勢は消滅。
越後上杉、会津蘆名と渡り歩き、遂には家臣の闇討ちにあったらしい。
小笠原湖雲斎長時、武人としての技量は申し分無かっただけに
せめてもう一華、どこかで咲かせてあげかった。何ともさみしい最期でした。
 でも、子孫が徳川に拾ってもらえて良かったです。
旧領とは遠く離れた豊前 小倉15万石でしたが現代まで続いてます。

ちなみに現在の宗家 敬承斎さん、洋装がとても素敵でキレイな女性です。
(長々と引っ張ってきましたが、実はコレが言いたかったんです。)





投稿本当にありがとうございました。

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