第四回(服部半蔵)
今川国氏
服部半蔵=忍者
は正解だとおもいますが
私の印象は家康の弟の松平っていう人を自害さしたのがゆうめいですが
服部半蔵は解釈を家康にたのまれましたが半蔵は首をきりませんでした
服部は家康の弟と親しみをもっていて首をきりませんでした
あの伊賀越えですが服部半蔵は頼んだだけでなにもしなかったとおもいます
これが私の意見です
関東管領 真田昌幸
ずばり!!半蔵がいなかったらいえやすは死んでいたでしょう。
本能寺の変で家康が三河に帰るとき伊賀の忍者からまもったのも半蔵です
その功績は多大であったことは江戸城完成の時
半蔵門ができたことで証明されているでしょう。
半蔵の存在に心から感謝します
上杉景勝
徳川家臣。名乗りは正成。
一般に忍者として有名だが、実際は普通の武士。
父親(確か保長とか)が伊賀出身なだけ。本人は、
伊賀に住んだことさえないのだ。
「鬼の半蔵」というあだ名の通り、
戦場での暴れっぷりがこの人の本領でしょう。
家康の伊賀越えのとき、無事三河帰還できたのは、半蔵のおかげです。
当時の伊賀には野伏が多く、本来は危険な道だったのだが、
伊賀の血を引く半蔵が土地の有力者を口説き、家康を保護させたのです。
この縁で伊賀の地侍たちは家康生還後に召しだされ、
伊賀同心という最下層の足軽集団ながら、徳川家の一員になる。
そして半蔵はその元締めに任ぜられた。
この集団が諜報活動を任されたから半蔵忍者説が生まれたのでしょう。
家康の嫡子・信康が切腹するとき、介錯を務めたのが半蔵。
だが、半蔵は涙を流し、ついに信康の首を打てなかった。
「鬼と呼ばれたおまえでも、主は斬れんものよの」とは家康のセリフ。
泣かせるねぇ。
私は、半蔵は義の高い武将だと思ってます。
真田大助
服部半蔵というと、某忍者まんが(笑)の影響もあり
凄腕の忍術使いのように思えます。
しかし、実際には上忍というものは家系で決まるもので、
幼い頃より指導者としての教育を優先的に受けています。
ある程度の鍛錬はしますが、それでも実戦部隊たる中忍や下忍に比べると
術の腕はガクンと落ちるのです。
中には全く忍術とは縁の無い上忍もいました。
半蔵もその例外ではありません。影武者たちはともかく、
本人は槍術の名人としての実力の方がありました。 12/15
仄
今川国氏殿の投稿に対する修正
自害させたのは家康の弟ではなく、第一子、松平信康ですよ。
その程度は確認しましょうね。
小物
服部半蔵は忍者というのが定着している人も少なくはないでしょう。
しかし上杉景勝殿のおっしゃるとおり、普通の武士でしかありません。
なぜ忍者説がでたのかは、家康に伊賀忍者の頭領
(まとめ役?)を任せられたことからだと思います。
最初に忍者説を出したのは某マンガなのでしょうか?
弁丸
正成。石見守。父は半三保長。もとは伊賀国服部領の住人で
父の代に松平氏に出仕した。
1557年、三河宇土城夜討以来、半蔵は伊賀の忍
びを率いて戦功を挙げたというが、詳細は不詳。
しかし伊賀一揆国衆が織田軍の詮議をかいくぐり、
半蔵・家康の保護を受けたのは事実のようだ。
史実に残る半蔵は戦場における槍働きを称えられ、
「槍半蔵」の異名を取っている。遠江国に八千石を領し、
物頭として甲賀・伊賀衆を糾合したというが、詳細は不明。
二人の息子も半蔵を称したが、後に改易された。
投稿本当にありがとうございました。
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