第三十九回(武田信玄)
光源院義輝
みなさん、そろそろこの人の評価をしましょう。
申し訳無いですが、私個人としてはこの人キライの部類に入ります。
世の人々から多大な評価を受けている信玄ですが、
どうしても過大な評価なのでは・・と思ってしまいます。
ソレは、コーエーのゲームが開始直後から軍事行動を起こして
小笠原、村上をアッという間に消滅させるせいかもしれません。
確かに並以上の武将であることは認めます。
でも、武田滅亡の原因を作ったのはこの人だと言いたい。
全てが勝頼のせいにされてます。ホントは、この人が悪いんです。
武田のイイところを全部、信玄が持ってっただけなんですから。
甲斐の国は、国人達が好き勝手で鎌倉時代からの守護職 武田家に
従わないものが古くから多かったようです。
全国見渡せば、国人、豪族にとって代わられた
守護家、名門も多々在りました。
それが全国規模で下剋上が盛んになっても、甲斐では武田が滅びずに
ずっと守護職でいられたのは・・。
それは、甲斐が日本有数の貧乏国であったからと思います。
狭い国土に、広がる山地。それに引き換え僅かな農地。
生活の糧が農耕中心のこの時代。
農業生産力はそのまま家臣や領民を養う力につながる。
主は、その余剰をどれだけ蓄えられるか、
またそれをどれだけ軍備にまわせるかに、みんな頭を悩ませてた。
元々、生産力が低いから貧乏過ぎて
守護に勝る力をつけるに至らなかったこと。
みんな貧乏過ぎて、大規模な いくさをおこすには
至らなかったことが言えるでしょう。
それまで、国外から甲斐征服にくる敵がほとんど無かったことが
この国に獲得の利点が少ないことを証明してます。
(確かに大軍が何度か攻め込んできましたが、
征服が第1目的ではなさそうでした。
進攻軍が勝ってもそのまま甲斐を支配する事はなかったし。)
いっこうに収まらぬこの国の内乱を、
自ら先陣をきりながら無理矢理 武力で押さえつけ、
統一させたのは武田家第15代当主である父 信虎。
外交で外敵を封じて、内乱鎮圧に専念してた、そう思います。
結構、頑張ってたと評価できそうです。
ただ、度重なるいくさで とばっちりを受けるのは領民。
重税に苦しみ、信虎への不満が高まるのは当然。
いくらなんでも赤子見たさに妊婦の胎を裂かせるのもねぇ・・。
それも、1人、2人じゃ済まなかったそうだ。
そこで、信玄。
当主に祭り上げられた当初は、家中に
板垣、甘利、飯富など錚々たる顔ぶれが並ぶ。
いくさ馴れした家臣を始めから多数、
持っていたことは大きな利点です。
彼らは父 信虎に叩き上げられた強者で、信虎の諱をもらった者、
信虎が評判と引き換えに育て上げた武将達です。
ソレをまるまる頂いたおかげで当分、
家臣の新規育成を最優先にさせず済んだ。
それと現代の森総理から小泉総理に替わったのと一緒で、
周囲の期待が高いところから始まれた利点も在る。
じゃ、イキナリ辣腕を振るって
武田の快進撃が始まったというのはちょっと違う。
はじめの頃は政務、軍務ともに板垣たち任せで、
館奥に籠もり、ずっと遊び呆けてた。
それも、なかなか改まる様子もないので、
仕方なく板垣が諫言したわけ。
元々バカ殿じゃなかっただけに、よく反省したようだ。
そこから、ようやく甲斐の国政と真剣に向き合うようになった。
まず、貧乏からの脱却を
最大の目標に掲げ、国力増強と外征に励む。
信玄は、守旧的国人たちの不満の捌け口を
決して自身に向けさせないように、
常に新しく明確で具体的な“エサ”をぶら下げ、与え続けた。
絶対君主でない信玄にとって、コレは生命線、
君主の求心力を問われる大事。
コレってできそうで簡単じゃないんだよね。
それまでの武田の当主は、自分の諱を
惜しみなく分け与え手懐けるのが精一杯。
でも、有力国人たちを心服させるまでには至らず、
不満の火種が何年もの間国内のあちこちで燻り続け、
鎮圧に一生を費やしてた。
でも信玄、最終的にはどんな甲斐にしたいか、
豊かになってどうするかまでは、この時点で考えてません。
とにかく、豊かになりさえすればイイだろうと。
まぁ、一応コレで国中が同じ目標に向かって、
活動するようにはなれた。
その信玄の国興し。
まず、国力増強は地道にやれば成果が上がるからイイ。
(代表的な国家事業“信玄堤”は、完成まで15年)
だけど、肝心なのは外征。貧乏なのにどうすんだ?
領民負担じゃ信虎といっしょだろってところに、
出た出た金山。
それまでは河川流域での砂金採りに頼っていたのだが、
新技術の精錬法とそれに伴う鉱山開発により
採掘量が飛躍的に増え、財政的にも非常に潤った。
信玄自身も金採掘の勉強をしてたそうだ。
コレなら大掛かりな外征もできて、領民の負担も減る。
そこで、戦国バブルとも言える
ほとんど毎年に渡る超積極外征が始まる。
真っ先に餌食になったのが、信州 諏訪家。
信虎時代には、諏訪家の協力を得て
信州攻略に取り組んだこともあるそうだが、
信玄は血も涙もなく、通り道の諏訪家から
イキナリ潰してしまった。
貧乏国甲斐が裕福になるにはこの時、
信州併呑化、植民地化政策しかなかった。
だが、信濃完全平定のあとに潰すのは
難しくなるからということだろう。
現代の我々が考える以上に、
信州での諏訪大社の影響力は大きく、
諏訪家と武田家が並び立つことがあっては
完全支配もおぼつかないようだ。
この人、決断する時は早く、しかも情に流されることがない。
諏訪頼重の娘 湖依姫を無理にでも側室にしたかった理由は
将来、武田一門による信州支配者が欲しかったものと思われる。
それも妹の子ではなく、自分の子として。
甥っ子では言うこと聞かないかもしれないし。
侵略者武田よりも、
諏訪大社 祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)の
末裔の方が遥かに統治しやすい。
それも諏訪の嫡流が自分の子にしか無かった様にすれば、
将来的にもイイだろうと。
なにも姫の美貌に目が眩んだだけじゃないことを考慮したい。
あとそれからこの人、始めからいくさ上手じゃなかった。
信州 上田原では信虎の遺産を失った。大敗「戸石崩れ」でも、
ヒドイ目にあった。
信虎には、島津義弘と同じで
自ら率いる分ウマくて強い印象がある。
信玄は先陣をきることがなく、
後ろで動かすだけでウマいが強いとは言わないと思う。
そのウマさだって、このボコボコ敗けに懲りたことから、
敗けないいくさの積み重ねでようやく身についた訳です。
更にココから力攻め頼みからの脱却、
懐柔工作など謀略を用いる頻度が一層高まる。
ところが、その後の信州完全制圧は、
長尾平三景虎の越後勢に阻まれ続け、
それまで問題無かった北進政策が突然行き詰まる。
不景気が来たようなもんだ。与え続けてた“エサ”も切れる。
それまで順調に、当たり前のように増えてた知行地が、
思う程 増えなくなった。
国人達からも にわかに不満の声が揚がる。
矛先を上野進出に切り替えるが、北条家だってイイ顔しない。
すでに大国として認められるようになってたが、
飛騨、越中にも手を伸ばそうとしたようだ。
でも、それ程潤わない。
それじゃあって、上野西部制圧に目処がついた途端、
南進に政策転換。
駿河を手に入れるのは非常に大きい、確かに合理的ではある。
でも、ココが武田家の運命の分かれ道、
転落への第1歩が始まったと思います。
結果的に『米俵欲しさに田畑 売り渡した』ことになった。
嫡男太郎義信を犠牲にしての駿河獲りは、
北条家という余計な敵をにつくり、弊害ばかりをもたらした。
太郎義信、造反により幽閉ってことになってます。
(1565年9月のこと。2年後に自害、今川家と決裂。)
でも、実際は“義信を悪者にしないと
信玄に正義が無くなる苦しい言い訳”だと思います。
「四郎勝頼かわいさによる信玄の暴挙」
「この乱世に甘っちょろいことを言う太郎義信の若さ」
など諸説、いろいろ言われます。が、あくまでも
『決断に私情をはさまず、
武田家の発展、拡大、存続を最優先とする』
そんな信玄だった、そういう決断だったと思います。
どうしても新領土が欲しい、
切実な問題を抱えてたのではないでしょうか。
しかし、最良の選択じゃなかった。
ココはこう動くべきじゃなかったんです。
そう、義信事件から駿河進攻に至るこの3年が、
そんなに信玄を偉大と思わない最大のポイントです。
南進政策が、早くから家中で問題となってたのは
間違いなさそうです。
大国の当主となっても信玄、まだ絶対君主でなかった。
確かに無理はありますが。
わがままな国人たちの不満に対し、
断固たる態度で臨まず、
コレまで同様エサを与える路線に徹した。
(わがままとも言いきれないかも。
毎年いくさじゃ国人衆の負担はデカイ。
まだ兵糧は国人たちの自己負担のハズですんで。)
おそらく彼らに押し切られたのだと思います。
国人衆にとって出兵は負担ではある。
だが、それでも領地はどうしても欲しい。
領地が増えていきさえすれば、
なんとか食べてけるだろうと。
また、子孫の代で領地分配すると、
一人あたりの食い扶持が減る心配もするだろうし。
だがここで、また際限のない
利己的な領土拡張策で南進すれば、
北条家とも決別するのが当然、判っているハズです。
太郎義信とて正室の実家 駿河を攻め獲るなんて
道義に反すると異議を唱えて当然。
それでいて、それらの理由が勿論、判っていながら決断した。
もしも、「謀略でなんとでもなる、
四方囲まれても構わん」なんて考えてたらバカ。
そこまではないでしょう。
でも、決断したからには反対派は封じねばなるまい。
と、なると真っ向から反対した太郎義信の処遇。
先手をうっての謀叛がホントの話なら最低でも謹慎くらい、
傅役 飯富兵部にも切腹くらいさせなくてはいけません。
でも、義信だってバカじゃないですよ、きっと。
甲斐を混乱、内乱に陥れる武力による謀叛は無いでしょう。
ただ、幽閉は処分が重過ぎますので、もしかしたら、
「信玄を強制隠居に追いやるつもりだった」
というのが妥当なのかもしれません。
そして、それを事前に察知できた信玄が強引に封じ、
駿河進攻へ結びつけて正当化したんでしょうね。
『国主 信玄への反抗は、子といえども許されない』
簡単に足元を揺るがす国人衆へと、
甲、信の二州をはじめとする支配領国及び
そこの領民への、強烈な
“見せしめ”になったものと思われます。
逆に、国人を締め上げては足元ひっくり返されますんで。
そりゃ、彼らも驚いたでしょう。
実際、動揺した領内では信玄支持の起請文を書かせて、
諏訪大社に奉納したそうです。
それでも彼ら、領地が増やせて
褒美がもらえそうな駿河攻めなもんだから
結果的には喜んでるハズでしょう。
怖い越後勢より、弱い駿河勢相手のいくさって訳ですし。
こうして、ここでも不満の矛先は
信玄自身に向けさせず、結局、太郎義信を見捨てた。
『信玄に正義がある』とは、かなり無理があったでしょう。
おそらく高坂弾正あたりは真相を知ってますよ、きっと。
でも、信玄の決断だから誰も異議を唱えられない。
(賢弟 典厩信繁でも生きてれば別でしょうが。)
仕方ないから『甲陽軍鑑』なんかで、太郎義信のことを
『国を滅ぼす、傾ける四大将の1人“賢すぎる大将”』
なんてフォローが入ってるんでしょうね、多分。
なら、何が最良の選択か?
生産力向上、国力の更なる底上げを狙った
“内政重点策”を掲げ、同時に領民への減税を実施するのが
1番良かったと思います。
国力増強を推し進めてはいたが、
領土拡大の割に中身が伴わなかったのでしょう。
大国になっても、まだ重税を課してた様子です。
内政なんて外征と同時進行でやってきたでしょうが、
兵馬を休めることだって同時じゃできないので大事です。
じゃ、他は何も無しか?
イヤ、ここでこそ謀略をふんだんに使うべし。
狙いは駿河。今川家臣を懐柔し、
親・武田派を増やすことに努める。
最大の目的は今川家臣団に、氏真を見限らせること。
『駿、遠の二州を今川家から譲ってもらう』ことにある。
実現させるには、手が混みすぎて時間も掛かるだろう。
でも、信玄が本当に一流の謀将ならコレくらいやって欲しい。
具体的には、家康が今川家と断交
〔1563年7月〕した情報くらい掴んでるから、
「家康が攻めてくる」と駿、遠の両州に
噂を流し、不安に陥れる。
が、武田からは決して駿河攻めはしないこと。
実際、家康からも一緒に攻める誘いがあるが
ハッキリ断るとよい。
これにより、家康は単独の今川領進攻に
躊躇うものと思われる。
が、家康が単独でも攻めこめる状況を
作ってやれさえすれば良い。
それには、北条家から援軍を送らせないように
常陸 佐竹家あたりを動かす。
彼らだけじゃ頼りないので、上杉謙信も
関東に出易くすれば北条家は余計動けない。
そのためにも、武田家は北信濃出陣を控える。
越中、会津も誘わないこと。
どこにも攻められないことになるが、ココは戦力温存、
領民慰撫のためにも自重する。
(実際には西 上野攻略だが我慢、真田には申し訳無いが。)
どうしても、軍事行動を起こしたければ
1番効果的なのは飛騨進攻か。
確かに攻め入ったことがあるそうです。
(飛騨 桜洞城〈飛騨南部、信州からは
御岳の向こう側くらいのところ〉の城下に押し寄せてます。)
でも、飛騨では大軍の移動が不自由であきらめた様子。
それでも全域を制圧すること。特に帰雲城を陥落、
もしくは臣従させて、
新たな資金源を確保するのが良いでしょう。
また、領内が凶作で軍事行動が起こすどころではないだの、
自身が病だの、適当な嘘をならべ
三河に噂を流すのがイイかも。
こうして、家康が
安心して攻め込める状況を作ってやること。
(実際の進攻、家康は三河平定後の1568年4月で、
信玄は同年12月)
ただし、それまでに義信は
1度反省を促すよう謹慎させとくこと。
それも謀叛に至る前に、コレ必要です。
今川家との同盟は有効なのだが、
飛騨攻めで忙しいとかの理由をつけて、
逍遥軒信廉あたりを大将とした、
申し訳程度の僅かな援軍を送ってやる。
が、簡単に追い散らしてはいけない。
家康の進攻により、今川家がジリ貧になる状況をつくりたい。
ただ、家康のことだから破竹の進撃とはいかずに、
モタモタ慎重に進攻することもあるでしょうが・・。
できれば大井川どころか、
駿府の喉元 安倍川まで攻め込ませたい。
そうすると今川家中には、
家康になびく者が多く出てくるだろう。
ますます窮地に立たされる。領民レベルでは、
今川家の悪政から開放されて喜ぶかも。
このあたりで、義信の謹慎を解いて
駿河増援軍の大将にでも据えてやる。
アメとムチをしっかり使い分ければ
正直者 義信は手懐けられるハズ。
ただし、真っ正直な義信では
必要以上な働きをしてしまうため、
馬場美濃でも付けて送り出す。飯富兵部と申し合わせて
「甲斐の大将として相応しい働き」をさせながらも、
やりすぎない様に太郎義信をウマく制御する旨を含めて。
そして、ここでの家康は駿府近辺から追い払うだけに留める。
どうせ援軍なので、勝てても恩しか売れないのでホドホドに。
もし、氏真がここで性根を改め、
父祖に劣らぬ名君の道を歩みだすと無駄になる。
でも実際の氏真をみる限り心配なさそうだ。危機を脱し、
お気楽生活に戻ったところ、
ココで懐柔した今川家臣に決起させる。でも、
氏真に隠居を強要すると跡目はどうする?って問題になる。
幼君をたてての傀儡化でも問題になる。
だから、氏真を隠棲させて、今川家の方から
武田家の庇護を求める様に仕向ける。
『氏真様に替わって、駿河を治めて頂きたい。』
どうせ、氏真だって絶対君主じゃないわけだから、
できると思います。
でも、ココでは信玄、「氏真殿で立て直すように。
その為の助力くらいは惜しまぬ。」
と、心にも無いこと言って
丁寧にお断りをして突き放すこと。
心細くなる今川家臣団は連判状、起請文でも書いて
武田支持を誓おうとします。
もちろん家中反対派は、今川家臣の手で排除させる。
絶対に武田を支持するように団結すると、
もう1度申し入れに来る。
「甥 氏真殿から譲り受けるは道義に反するやもしれぬが、
だからと言って、このまま駿河を見捨てるのも忍びない。
ならば、義弟 義信への譲り渡しではどうか?」と切り返す。
さらに義信が「あくまで駿河は今川家のもの。
だが、義兄上の代行としてならば・・」
という条件で引き受けると万全。
基本的には、義信を中心に
馬場美濃、飯富兵部、そして今川家臣たちの
合議制という形で甲斐とは独立した国政を執ることとする。
だが、実際には信玄の内意を受けた馬場美濃の発言が、
義信の機嫌を損ねないようにしながらも
大きく動かしていけば良い。
真っ正直で、誠実な義信と正室に、隠棲させ蹴鞠、
詩歌三昧の氏真や寿桂尼(治部太輔義元の実母、
駿河国政を取り仕切った人物)の世話を任せ、
駿河支配を磐石にするように、
この2人の支持、信頼を得ること。
これにより義信政権の邪魔者は無くなり、
全てが正当化される。
それまでの今川家が疎かにしてきた
「領民を慰撫する政務」をしながらも、
一方で家康を追い払う いくさも忘れない。
『亡き治部太輔様に大恩ある身でありながら、
その御諱を捨てたどころか、
このたび今川家に弓を引きおった。
その不届き者を懲らしめる。』
というコレ以上ない大儀を掲げて、家康掃討戦ができる。
援軍のまま蹴散らしても実益が無いが、
駿河の支配者としてなら領地が入ってくる。
勿論前もって噂を流し、有利な状況に持ち込んでおくこと。
そうすれば、家康を見限って
もう1度駿河勢になびく者も出てくるのは確実。
領民だって強大国 武田による
駿河善政の評判を聞いて味方する。
南信 飯田からも遠州へ同時進攻ならダメ押し。
掛川城どころかイッキに浜松城まで押し返せるだろう。
ここまでを永禄年間中〔1569年頃まで〕にできれば、
信長は足利義昭を新将軍に据え、
御所修繕と二条城普請を済ませただけ。
足場固めは、伊勢 北畠攻略までしかできてない。
畿内は摂津、河内、和泉に進出してても、まだ不安定。
だから、将軍 義昭による信長包囲戦略が
とても有利なところから始められる。
北条との関係が万全であり、越後対策さえ怠らなければ、
かなりの国力を西上政策に注ぐ事だって可能だ。
信長だって家康の薄皮越しに武田の圧力を感じていれば、
身動きもできなかったハズ。
家康に至っては生命線の浜松、吉田を獲られた時点で
降参、臣従するでしょう。
でも、やらなかった。
太郎義信を見放したツケは計り知れない程大きく、
武田家の将来に“不安材料”として重く、
重く圧し掛かった。
諏訪四郎を後継者として甲斐に迎えたが、
信濃衆が甲斐を治めることに守旧的な甲斐国人が反発。
一部、信玄からの厚遇を受けられなかった者は、
勝頼派になびいて挽回してたそうですが、
大半は不満だらけ。
彼らには、信州を支配地として見下してたところも、
おそらくあると思います。
その信濃衆に支配されることは到底、我慢ならないと。
その辺りの険悪な空気を察してか信玄、
『四郎勝頼の子 武王丸(信勝)を後継者とし、
勝頼はその“陣代”を務める』
とするしか家中をまとめる手段が無かった。
ここの家中でも、信玄個人との結びつきだけで
従っているせいで、
彼らと武田家との関係はいつも不安定。
これは、別に勝頼のせいじゃない。
結果的に「後先考えず突っ走ってきた、
信玄の悪業の報い」と言えなくもない。
その最期は、秀吉ほどではないにしろ
不安を残したままだった。
生きている間に重大事を解決させてから死んだ家康より
無用心だった。
信長への圧力が掛け足りないまま、
元亀4年〔1573〕4月信玄死去。
長年にわたる出陣が心身を蝕んだのに加え、
その辺りの心労が一段と信玄の寿命を縮めたとも言える。
斎藤道三
戦国時代の武将。甲斐の守護武田氏の嫡流信虎の長子。
父信虎が暴政を行ったので父を廃して嗣立。これより信濃経略を志し、
諏訪氏を滅ぼし小笠原・村上諸氏を攻めた。
村上義清が越後の上杉謙信に頼ったため、以後信玄と謙信は信濃に対戦した。
川中島の戦いは著名。また、北条氏・今川氏らと時には戦い、
時には結びしだいに勢力を伸張した。今川の衰退に乗じて駿河を攻略し、
進んで京に上ろうとして遠江三方原で徳川家康と戦い大勝したが、
陣中にて戦死した。軍略に関しては当代随一の名将。
「信玄法度」(甲州法度)の制定、治水や鉱山開発など民政上の経綸を示した。
投稿本当にありがとうございました。
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