第三十七回(鍋島直茂)

奥村助右衛門

秀吉が病歿した直後、大坂方の奉行らが家康を亡ぼそうと企んだ際、
直茂は伏見に行って家康の館の警備に当たり、家康は非常に喜んだ。
直茂が言うには、「今回のことはさておき、
私の死後も子供らに申し伝え、万一徳川家に
もしものことがあるときは当家も共に戦って滅びましょう。
畏れ多いことですが、このことを(家康の)御子孫に
おっしゃっていただけるのであれば、
これに過ぎる喜びはありません」
 家康はこれを聞いて大いに感じ、
「中納言(秀忠)にもその旨を申し伝えよう」と言った。
 さて、関ヶ原の合戦となり、直茂の子の勝茂は
大坂方に加担して伏見・阿濃津・松
阪などの城を攻めた。国もとにいて
これを聞いた直茂は仰天し、下村左馬介という者を
勝茂のもとに遣わしてこう言わせてその行動を制した。
「今回の戦はまだ幼い秀頼公は何も関わっていない。
奉行たちが私怨を晴らすために内府(家康)を
亡きものにしようとしているだけだ。
私は内府とかねてより約束している。
間違っても東国の軍勢に向かって矢を放っては成らぬ。
これは故太閤のおっしゃった通り、
秀頼公に背かずまた内府の命を重んじなければならない」
 勝茂は非常に驚いて先の非を悔やみ、罪を謝したところ、
これを聞いた家康は、
「彼の父直茂とは、かねて約束したことがある。
どうしてそれを違えようか」
 こう言ってたちどころに勝茂の罪を許したという。
この、直茂の忠誠心というか義の心は感服致しますね。





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