第三十五(楠木正成)
長野業政
彼は言わずと知れた南北朝時代前半?の花形武将です。
「悪党楠木」と呼ばれていたのは公家や大きな寺や社の僧や
神官などからであった。
なぜ彼を悪党と呼んでいたのかというと彼は京都に運び込まれる
公家や寺社の年貢を強奪していたからである。
しかし彼のすごいところは強奪したものを自分の物にせず
農民たちにばら撒いていたかれであります。
したがって付近の農民達から「ヒーロー」的存在だったようです。
こういったエピソードだけでも彼がどういった人物か
うかがえるような気がします。
さて戦のほうはと言うとこれもまたすごい戦績ばかりであります。
赤坂城や千早城での幕府軍(鎌倉幕府、六波羅軍)との篭城戦。
これは幕府軍と楠木軍との兵数の差は歴然であり普通に考えれば
幕府軍の兵数で押し切れるだろうと考えるのが妥当だが
彼はそれをものともせず戦いぬいた。
この篭城戦で戦い方を考えてみると
正成や前代未聞の戦い方をしたのである。
それは攻めてくる敵軍に対してありとあらゆる戦法をとったのである。
城に登ってくる兵に上から弓矢を撃ち掛けたり
伏兵を敗走する敵部隊に伏兵を用いて追い討ちをかけたり
休息中の敵軍に奇襲をしかけたりと・・・
しかしこれらはまだ常識内で考えらますが登ってくる塀に
上から熱湯を流したり大石を落としたり
油を流してすかさず松明を投げかけたりと・・・
油を浴びた兵に松明が投げられたらどうなるかは
容易に想像できますね。
こういった非常に奇怪な戦法で幕府軍を散々懲らしめたのあります。
幕府軍が兵に勝りつつもこうもいいようにやられたのは
やはり正成のとった奇怪な戦法でしょう。
いくらなんでもさすがに熱湯や油が流れ落ちてくるとは
当時の人たちには想像もつかないことでしょう。
こういった相手の虚をつく戦法で
敵を散々に破ったのであると私は思います。
正成の最期は足利尊氏軍との戦いでした。
楠木軍は新田義貞軍と足利軍を迎え撃つはずでしたが
新田軍はすぐに京に向かって敗走してしまい
巨大な足利軍を相手に最期まで奮戦しました。
少数の楠木軍は一団となり足利軍に突撃しては退いて突撃しては退いてと
これを十数度繰り返して兵も100人を切り
そして皆自害して楠木軍の戦いは終わりました。
私が考えるに彼はどんなときも一番良い戦法を思いつき
それを実行にうつしては大きな戦果を出していたと思います。
常に最善の策を出せたのが彼の素晴らしいとこであると思います。
今でも彼が人気なのはやはり小が大を倒すといった光景が
好感を持てるからでしょう。
そして弱いもの(農民等)の味方だったからだと思います。
投稿本当にありがとうございました。
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