第三十三回(藤原秀衡)

藤原秀衡

  【別 称】
 藤原秀平。

【肩書き・職業】
 奥州藤原氏3代当主(『吾妻鏡』)。出羽押領使。鎮守府将軍。陸奥守。
 
【出自・系譜関係】
 2代当主・藤原基衡嫡男。母は安倍宗任の娘。
 藤原国衡,泰衡,忠衡らの父。



【履歴・事績】
 保安3(1122)年に生まれたと云われている(推定)。
仁平年間(1151〜54)、生母を喪う。また、
陸奥守藤原基成の娘を娶る。保元2(1157)年3月、
基衛没後に家督相続。仏教への信仰心が厚く白山三峰などへ
金銅仏の奉納を行い、仁安4(1169)年4月、五輪石塔を造立した。
保元の乱以後、当時の京を含む全国各地では覇権をめぐって相剋の様を呈し、
その影響からか、嘉応2(1170)年5月25日、
朝廷より鎮守府将軍に任ぜられている(〜安元2=1176年3月)。
これは地元豪族としては清原武則以来百年ぶり、二人目の抜擢となり、
その極めて異例な人選故に京の公卿の間でも物議をかもしたという。
承安3(1173)年、高野山の五大多宝塔建立にともなう
開眼供養の費用一切を引き受け、検校・阿闍梨定兼に
「勢徳世に希な人」と言わしめた。

 承安4(1174)年、源義朝の遺児・牛若(のち源義経)の
平泉下向のさい身柄を引き受ける。理由ははっきりしないが、
牛若の生母・常盤が再嫁した大蔵卿藤原長成から血族である
基成に持ちかけられたが、その実弟・信頼が平治の乱のおりに義朝を
敗死させた事情に配慮し、秀衡がやむなく了承したのであろうか。
安元2(1176)年、亡父基衡の二十回忌を営み、写経。
治承4(1180)年8月、平氏打倒を目論む
源頼朝の挙兵に呼応しようとする義経に対し、
戦闘参加には消極的立場であり、その出陣においても佐藤継信,
忠信のみを与えただけであった。この時期以降、
奥州の動静に関する風説や流言が各地で頻繁に飛び交うようになるが、
これが秀衡の操作によるものかは不明である。
養和元(1181)年8月15日、平宗盛らの意向により
陸奥守に任ぜられたが、このときも秀衡が頼朝に背くとの風説が流れ、
これを畏れた頼朝は鎌倉江ノ島で寿永元(1182)年4月5日、
秀衡調伏の密儀を行っている。しかしこの後も実質的に動くことはなく、
寿永2(1183)年に新たに入京してきた
木曽義仲による頼朝追討の命令にも応じなかった。
元暦元(1184)年、東大寺の大仏修理料を献ずる。

 元暦2(1185)年3月に平氏滅亡ののち頼朝が台頭。
翌年、朝廷への貢納品の仲介を鎌倉に通すよう要求されると
容認する姿勢をとった。しかし文治3(1187)年2月、
既に頼朝と不和になっていた義経が平泉に現れるとこれを匿う行動に出た。
のち病床に臥し、頼朝との直接対立が不可避となった事を懸念しながら
同年10月29日に没した。一説に息子の国衡,泰衡らに
義経を主君として支える旨の遺言を残したともいう。
享年66歳。没後、その遺体は祖父・清衡,父・基衡と同様に
中尊寺金色堂の須弥壇(西北壇)に安置された。
生前は宇治平等院を模した無量光院を建立したとも伝えられる。
なお、昭和25(1950)年3月に藤原氏四代の遺体調査が行われ、
このときに調査員として立ち会った作家の大佛次郎は
秀衡を以て「北国の王者にふさわしい顔立ちといって憚らない」と評している。
それから、東北では南部鉄器と並ぶほど秀衝塗りが有名である。


ふう、このぐらいです。少し悪い様に書いてますけど、
これが調べた結果です。私としては秀衝は誰の旗にもなびかず、
義経をかばう人情に厚い人で、独自の奥州文化を築き上げた凄い人。
とまとめています。尊敬しています!





投稿本当にありがとうございました。

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