第三十一回(明智光秀)

伊達晴宗

  前半期は謎。織田家に仕えたものの本能寺の変で主君・信長を殺害。
山崎で秀吉に敗れ農民に殺される。かと思いきや、
実は生き延びてて天海とかゆう僧になったとか。謎だ。

可児才蔵

朝倉義景に仕えたのち、織田信長の家臣となった。
たくさんの武功をあげたが、本能寺で主君信長を討つ。
しかしその直後山崎の合戦で秀吉に敗れ、
敗走中農民に襲われたとなっているが、
そこで死んだのか、生き延びたのかはわからない。
全く短い天下だった。

武田太郎義信

明智光秀の故郷は美濃国明智郷。土岐氏の流れを汲んでいる
明智氏の嫡男として生まれた。斎藤氏が明智城に攻めてきた時に
危うく逃れる。旧縁を頼りながら越前へ。越前で
朝倉家に仕えていた折、京から朝倉義景の所に
足利義昭がやってくる。しかし、朝倉義景には
足利義昭を援助する気はなく、織田信長を頼ることにする。
その時、光秀が交渉役となり、そのまま織田信長に仕えることとなった。
1568年織田信長は足利義昭と共に京へ上洛。
義昭は征夷大将軍となった。しかし、1573年に信長に追放される。
それから、光秀は信長が神仏を信じていなくて
朝廷をないがしろに恐れがあると感じていた。
それは朝廷を重んじる光秀にとってやりきれないものだった。
それから信長への不満がだんだん多くなり、決定的なことが、
丹波などの所領を没収し、石見などを毛利から切り取り次第
それを与えると信長が光秀に言った。光秀はついに爆発して、
毛利へ援助に行く途中進路を京へ変えて、本能寺で信長を討った。
そのあと、羽柴秀吉が備中より駆け戻り光秀を破った。
光秀は近江の山中で農民に襲われて死んだ。しかし、
光秀の首が発見された時は討ち取られた時から
10日以上も経っていた為、判断するのは難しかった。
そういうことがあったため、光秀は南光坊天海という
僧になったという説がでた。
しかし、生年がはっきりしていないし、
南光坊天海の没年から逆算すると光秀とは生年が違うことが分かる。
多分その説はないと思う。(個人的な意見ですが・・・)





投稿本当にありがとうございました。

戻る