第三十回(豊臣秀吉)

太閤秀吉

  秀吉って。本当に有能な人間だったのかな?
黒田如水や秀長が死んだ後は、どうも下り坂だったように思われるんだけど。
何か意見ある?


藤原秀衡

秀吉は才能はあったと思います。しかしもうろくしたのか、
年を取ってから利休を殺したり、朝鮮出兵など不可解な行動をしています。
秀吉とあろうものが讒言に惑わされ利休を殺したところなど
はおかしいです。秀長だったか秀忠が死んだ時からおかしくなってます。
もう疲れてたのでしょうか?さらに秀頼が無能だった、三成と福島、
加藤の仲が悪かったことも不運ですね。


ちなみ

私は変わった視点から人物評価をしてみたいと思います。
史実上の信長、家康、秀吉の性格を心理学で分析したいと思います。
外向⇔内向 感情⇔理性 直感⇔現実
判断⇔柔軟 緊張⇔回避
以上の五つで分析したいと思います。

豊臣秀吉・・・外向、感情、直感、判断、緊張タイプ
おもしろおかしく話をする人だったそうなので、
思考的にも社会的にも外向型でしょう。秀頼が生まれてからは
親ばかに成り下がり、甥を切腹させ、
甥の妻子まで皆殺しにしたそうなので感情型。
政治についての計画がないのに天下を取ったそうなので直感型。
優柔不断な面はないので判断型。日本を平定した後、
よせばいいのに朝鮮と戦争したので緊張型。
「このタイプは内省性が低く、劣等感が高い。
ただし劣等感を認めようとしないので、不満のはけ口が周囲へと向かう。
参加意識に乏しい。リーダーとしては不適切、などの特質がある」そうです。


小物

下克上の世の中で農民から成り上がって太閤までになった人。
でも農民たちに厳しかった人でもある。自分も農民のつらさを知ってるはずだが。
途中で狂ってからの行動は理解できない。
無意味ともいえる朝鮮出兵はただの勘違いか狂ってか・・・謎です・・・

光源院義輝

 この人、実績の割にホント立派だったか怪しい。
でなけりゃこうも前半、後半同じ人がやったこととは思えない程の変わりっぷり。
信長の配下だった頃は小一郎秀長、蜂須賀小六、竹中、黒田の両兵衛。
彼らをはじめとする多くの人に支えられながら成功を収めてきた事は、
みなさん御承知の事と思います。
 しかし、その実態は・・・。
秀吉はケタ外れの求心力が有るだけで、目標を設定するのが仕事。
それに対し、傍らに侍る彼ら能臣達が具体的な策を示し、
途方もない、場合によっては不可能とも言える奇策の実現に向け
ひたすら邁進するだけだったと思います。
 元々、秀吉には調子のイイ事言って浮かれたところがあったハズです。
少なくとも、そう信じます。(別に、大河の影響ではありません)
それを小六たちが諌めて表面沙汰にならずにいたのでは・・と思います。
信長の配下では浮かれていられない事情もあったでしょう。
 逆に天下人になってから傍らに居たのは、石田治部ぐらいのもの。
治部殿は諫言なんてしないから、あれだけワガママ振りが発揮されたんでしょう。
 でも、あれだけの能臣たちが付き従うのは、
やはり、この人の底知れぬ魅力によるものでしようか。
でなけりゃ、話になりません。恐るべき『人たらし』。
 しかし、この『人たらし』をもってしても家中をまとめる事だけは
できませんでした。
おそらく、長浜の城持ちからず〜っと、そんな事してませんよ、この人。
信長を追いかけること、御眼鏡に適い続けることに躍起になって、
後ろ振り返ることなんて全くしてないと思われます。
全部、小一郎秀長と竹中重治が内部調停役だったのでしょう。
それも、秀吉に言われてやってたのではないと思います。
彼らが気付いて、しょうがないねぇって感じで。
だから、二人とも居なくなった後は、豊家にイイ事なんてなかった。
 日本史上、おそらく世界中を見回しても、
コレ程の出世話を残した人なんていないでしょう。
(世界史弱いんでわからんですが。ナポレオンくらいかな?
でも、秀吉の方がスタート時で、もっと下っぽい感じ。)
人より頭の回転は良かった。
それに、『場の空気』を察する能力も恐ろしく高かった。
当時の常人離れした、信長の思考を誰よりも察し、
その理想に限りなく近付けた功績は、これらの才能によるものでしょう。
 でも、お調子者過ぎた。
天下人になって、あれほど裕福な基盤を持っていながら、
巨大な家に見合わない脆弱な家臣団の地道な整備、再編を怠り、
豊家滅亡のきっかけを作った。
 己1人が裕福になり、心から支持してくれる人の獲得に努めなかった。
その最期がさみしかったことを思えば、当然だろう。同情なんてしません。

新免無二斎

豊臣秀吉と言う人は後世の評価で得をしていると思う。
古今東西、歴史上において最も忌み嫌われる悪政が3つあります。
増税・君主の道楽の為の大規模土木工事・名分無き対外出兵の3つです。
秀吉はこの3つを行なった日本で唯一の最高権力者です。
これ以外にも秀吉は残酷な行動を幾つも行なっています。
(京都の耳塚等もそれらの証拠のひとつです。)
それに、彼の領土は織田家のものであり、
織田家の家臣でありながら乗っ取りを
行なったのです。(正統な後継者である三法師秀信は
散々利用された挙句20万石の1大名に、
次男信雄は言いがかりを付けられ領土没収、
三男信考は信雄に切腹させられた事になっているが、
秀吉の意思が動いていたことは明らか。)
丹羽長秀・蒲生氏郷ら織田家の同僚だった者たちはその死後、
後継者には雀の涙ほどの領土しか後継を許さず
ほとんどを没収、竹中半兵衛でさえそうであった。
黒田如水はあれほどの巨大な武功をたてながらわずか十数万石、
男の名誉と言われたそうだが名誉では食っていけない。
これほどの悪人なのに彼の評価は「庶民の英雄」、それはなぜか。
秀吉には太閤記という宣伝文書があったからだとおもいます。
文章の力というのは恐ろしいもので宣伝文書を持たない徳川家康は
「庶民の英雄、秀吉」の政権を潰したという
事もあり、実際以上に評価で損をしていると思います。
実際には秀吉は「庶民の英雄」などでは無く、
「史上最悪の独裁者」であり、その末期には恐らく日本人のほとんどが
豊臣政権の終了を望んでいたのではないでしょうか。





投稿本当にありがとうございました。

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